出っ張ってない出島(笑)

出島を訪れた人の何人かは「え~? 出島っていうクセに、全然出っ張ってないじゃ~ん!!」と思うらしいです。
〝出島〟という名前のとおり、海に向かって飛び出しているというイメージを抱いてやって来るらしく、実際に目にして「海なんか全然見えないし、ちっとも島じゃねぇじゃんよぉ。それにエラい小さいし」と、脳内イメージがガラガラと音を立てて崩れてく人も数知れず。
ある意味〝ガッカリ名所〟候補かもしれませんね。
でも、中入ったら全然ガッカリしないよぉ。


画像出島は、この『表門』が本当の出入口。水門はあくまで積荷の通り口で、人の出入りは表門から行なわれていました。
出島は今よりももっと広く、中島川の半分ほどまでが本来の敷地だったそうで、表門ももっと川の中程に位置していたそうです。
現在の表門は平成2(1990)年に復元されたものです。

表門には「探番(さぐりばん)」と呼ばれる門番が常駐していて、出島に出入りする人を厳しく監視していました。特に厳しくチェックされていたのが抜荷(密貿易)で、探番は商品を密かに持ち出したり持ち込んだりしないよう監視し、不審な行動を取る者がいれば、着物の袖や懐にまで手を入れて探った事から、この名が付いたとされています。
ただまぁ、金品を貰って持ち出しを黙認する〝袖の下〟が横行する、有名無実な部分も少なからずあったようです。
中島川を隔てた対岸には、出島から出る事を許されないオランダ商館員に代わって物品を購入してくる「買物使」(商館員らからは「コンプラ仲間」と呼ばれていました)の詰所(コンプラ宿)がありました。商館員たちは、買物使を通じて、市中にあったパン屋からパンを購入させたり、近隣農家から豚や鶏を購入させたりしていました。後年になって、出島を通じて醤油や酒などを輸出する者も、買物使の中から出るようになりました。それを証拠付けるように、発掘現場から出土した遺物の中から、陶器製の瓶(コンプラ瓶)の破片が大量に出ています。

画像表門に通じる道を挟むように、石造りの蔵が2棟建ちます。
中央広場向かいに建つ新石倉は、慶応元(1865)年に建てられたもの。昭和51(1976)年に一部旧材を用いて復元されました。館内は、出島貿易やオランダ商館員の暮らしぶりを、通訳の目を通して紹介する「阿蘭陀通詞の出島案内」を上映する『出島シアター』として公開されています。
とても詳しくわかりやすく説明されていますので、出島散策の際は、まずはここから巡るといいかもしれませんね。
反対側に建つ旧石倉は、オランダ商館が閉鎖された安政6(1859)年に建てられた、2階建ての倉庫です。現在は『考古館』として、1階では発掘現場から出土した陶磁器やガラス製品などの遺物が展示され、2階では護岸石垣の修復・復元工事の模様が紹介されています。
出島の発掘調査では、伊万里焼や柿右衛門様式の輸出用陶磁器、東南アジアや中国などから輸入されてきた陶磁器、西欧の銀食器、ギヤマングラスなどが出土しています。
また、オランダではポピュラーな喫煙具であるクレーパイプも多数出土しています。ヒール(突起部)には、オランダ東インド会社の社章である「VOC」のマークやバタヴィア共和国の紋章が刻まれています。
「バタヴィア?って、どこですか?」
そう思われた方もいるでしょう。
説明しよう!――「メカの素」は要りません(笑)
1795年、フランス革命軍の侵攻によって滅んだネーデルラント連邦共和国(旧オランダ)に代わって樹立されたのが、バタヴィア共和国です。が、その実情はフランスの属国、傀儡国家でした。
バタヴィアの寿命は11年と短く、1806年にはナポレオンの弟ルイを国王とするホラント王国に全権を移譲します。しかし、ルイがナポレオンの命令よりネーデルラント人の権益を優先した事がナポレオンの逆鱗に触れ、1810年、ネーデルラントはフランスの直轄地に編入されます。
1813年にナポレオン体制が崩壊すると、イギリスに亡命していた統領職一族が帰還し、ネーデルラント王国を樹立。それが現在も続くオランダ王国の始まりです。
そんなオランダの近代史なんかも頭に入れとくと、これらの遺物も興味深く見る事が出来ます。
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カピタン部屋跡からは、48口径のリボルバー式拳銃が発掘されました。1845年以降にヨーロッパで生産されたものと推定され、カピタンの護身用と考えられていますが、何故投棄されたのかは謎です。
そんなに急いで引き払う必要があったのか?
一緒に出土した弾丸は蟹目打ち(ピン・ファイア)式という形状で、薬莢を持つ弾丸としては非常に初期のもの。今の弾丸のように底部の中心を撃針で叩くタイプではなく、底部脇から出ている撃発ピンを撃鉄で叩くタイプ。この飛び出しているピンが蟹の目に見える事から、「蟹目打ち式」という名が付いたとか。
今ではこのタイプの銃(弾丸含め)は作られておらず、古式銃として扱われています。
18~19世紀の銃は、武器である以上に美術品的な面もあった事から、グリップや銃身に華美な装飾が施されていたと考えられますが……こうもボロボロに錆びてたんじゃねぇ……?

画像旧石倉の隣には庭園が広がっています。
庭園内の小川には「カピタン橋」と名付けられた石橋が架けられ、「バドミントン伝来之地」の石碑や、シーボルトがケンペルとツュンベリーの功績を称えたて建てた顕彰碑が立っています。
ケンペルは元禄3(1690)年から2年間にわたって出島に滞在したドイツ人医師であり博物学者。ヨーロッパ帰国後、日本研究の成果として発刊した『廻国奇観』は、後に日本を訪れる外国人に与えた影響は少なくありません。また、死後出版された『日本誌』は、日本を正しく紹介した初の本として、18~19世紀のヨーロッパにおける日本観を大きく変えてゆくきっかけになりました。
スウェーデン人医師のツュンベリーも、ケンペルが著した『廻国奇観』の熱心な研究者の一人。安永4(1775)年に来日し、わずか1年4ヶ月の滞在の間に約800種類の日本の植物を採取、帰国後に『日本植物誌』という本を著します。この本により、日本の多くの植物が初めて学名を付けられ、世界に紹介されました。
この二人の著書に刺激されて日本を訪れたのがシーボルト。文政6(1823)年に日本を訪れ、オランダ商館医となる一方で、出島の外に鳴滝塾を開設。高野長英ら日本各地から集まってきた医者・学者に西洋医学を教えます。日本研究の熱心さが高じて、帰国荷物の中に幕府禁制の日本地図があった事から永久国外追放となる「シーボルト事件」なんてのを起こしますが、日本の医学発展に多大な功績を残しました。
そのシーボルトが、自らの人生に多大な影響を与えた、二人の偉大な先駆者に敬意を表して顕彰碑を建てたのも、何だか肯ける気がします。
画像庭園の入口にある門柱がまた珍しい。
一見すると石に見える門柱、実は陶器製なのです。その証拠に叩くとカンカンという陶器独特の甲高い音がしますし、窯元であるペトゥルス・レグゥー窯のマークが刻印されています。刻印の中に「P.REGOUT」の文字が見えますね。
(写真じゃ上下正方向を向いているように写ってますが、実際は上下逆さまです)
まぁ、デッカイ土管が門に使われてると思っていただければ(笑)
この庭園では、かつてヤマアラシやクジャクなどの珍しい動物が飼育されていました。
……象ですか?
象は……さすがにここじゃあ飼えないでしょう。
庭園の中程には、オランダ製の12ポンド砲が展示されています。
実はもう一門、カピタン部屋の軒先に展示されているのですが、そちらの方が風雨に曝されていない分、砲身に施された彫刻などが鮮やかに残っています。こちらの分は、如何せん真っ赤に錆び付いていて……
そのすぐ脇には、シーボルトがオランダ本国に送った約260種類の植物のうち、イロハモミジ、ナツヅタ、フジ、アケビ、ケヤキの5種類が植えられています。日蘭交流400年を記念して、平成12(2000)年に〝里帰り〟しました。
庭園の奥には、縮尺1/15のジオラマ模型が展示されています。これは川原慶賀が1820年頃の出島を描いた『長崎出島之図』を参考に、昭和51(1976)年に制作されたものです。『長崎出島之図』は、パンフレットや入場券にも描かれているので、見比べてみるのも面白いかと。
意外や、今建っている10棟以外にも、たくさんの建物が出島の中には建っていたようで、それらもいずれは復元して行く計画らしいです。将来的には全25棟の陣容を揃えるらしいです。
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表門から通じる中央広場の脇には、一際目立つ旗竿があります。日本とオランダの祝日には、オランダから寄贈された畳18畳分もの大きさがあるオランダ国旗が、高さ約30mに及ぶ旗竿に翻ります。フランス革命でオランダという国がなくなった時代、世界中でオランダ国旗が掲揚されていたのは、この出島だけだったそうです。
旗竿も、その時代により位置を転々としていたようで、川原慶賀が描いた『長崎出島之図』やシーボルトが残した地図などでは、二番蔵の裏手に描かれています。現在もその場所には、旗竿を立てていた土台の石が残されています。
画像旗竿の隣には、2階建ての洋館が建っています。
白い板壁とライム色に塗られた窓枠・テラスの洋館は、『長崎内外倶楽部記念館』といって、長崎政財界の社交の場として設立された英国風クラブ「長崎内外倶楽部」の集会場として、明治36(1903)年に建てられたものです。
長崎居留の外国人、日本人、互いの社会の交流を促進し意見を交換するという目的で設立されたクラブは、第2次大戦の影響で中断されるまで、〝多国民社会〟長崎を一つにするのと同時に、日本の政財界を結ぶコミュニケーションの場としての役割を果たしました。
この「長崎内外倶楽部」の中心メンバーだったのが倉場富三郎。あのグラバー卿の長男です。ホール内にあるクラブメンバーのメンバー表にも、しっかりと「倉場富三郎」の名前が残されています。
しっかし……いくら帰化したとはいえ、「グラバー」だから「倉場」って……(笑)
記念館は、オランダ商館時代の出島とは直接関係がないのですが、明治という時代における長崎の語り部として、今もこの地に残されています。
1階ホールは無料休憩所として開放されています。洋風カフェテラスのようなホールには、ビリヤード台が置かれています。ポケットがない台ってのがまた紳士っぽいですよね。そういったチョット優雅な雰囲気を味わいながら、「当時もこんな雰囲気だったんだろうなぁ……」と昔に思いを馳せてみたり。
ただ……どんなに優雅なフリしてみても、飲んでるのがペットボトルのお茶じゃねぇ……(笑)
2階には、写真パネルとともに当時を髣髴とさせるような家具・調度品が置かれ、居留地時代の雰囲気を今に伝えています。ワタクシめはといいますと、各部屋にある暖炉を見ながら「やっぱり洋館には暖炉だよねぇ~」なんてトンチンカンな感想を抱いてたりして。どこ見てんでしょ。

画像出島の東側一番奥には『旧出島神学校』が建ちます。現存するわが国最古のキリスト教神学校として、明治11(1878)年に建てられました。
……ん? 日本最古の神学校?
あの、ボク、大浦天主堂でも「日本最古の神学校」っての見てきましたけど?
ハイ、そうなんです。大浦天主堂で見てきた羅典神学校はカトリック系。こちらの出島神学校はプロテスタント系の神学校なんです。
水色の壁も印象的な洋風建築は、西側部分に鐘堂を持った木造2階建ての優雅な姿を、今も当時のままに残しています。
出島の東玄関という位置付けもあってか、1階には入場券の券売所やオランダ・長崎の土産品を売るショップ、休憩所などがあります。
2階には、当時出島で流行したウンスンカルタやビリヤードなどのゲームが体験出来る展示室があります。これらのゲームを見ていると、日本に伝わってから現在まで、時代の流れの中で形を変えたもの、変わらないもの、その様々な変遷を見る事が出来ます。
例えばバドミントンのラケット。
日本に伝わった当時は、今のようなスポーティーなものじゃなく、もっとズングリムックリとした、魚釣りで使う「たも」のような形をしていたのが見て取れます。
なかなかに面白いものですねぇ。



さて、出っ張ってない出島(笑)の今後について。
長崎市が掲げる復元整備計画の長期的展望では、四方に水路を整備し、19世紀初頭の頃のような扇形の美しい姿を完全復元させる考えらしいです。
さすがに海に向かって張り出させる訳にはいかないようですから、海を望む事は出来ないですけどね。
ただ、その計画を実現させる為には、数々の難題が重くのしかかっているようです。
姿を完全復元させようとしたら、中島川の改修工事で削られてしまった敷地を元に戻す為、川の付け替えと埋め立てをしなきゃならない。さらに、4面すべてに水路を巡らせようとしたら、すぐ隣を走る国道499号線の路線変更を始めとする、大幅な市街地改造が必要になってきます。

まぁ、50年100年といった長いスパンで考えていかなくてはならない計画のようですね。

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