長崎ルネッサ~ンス!!

長崎2日目の朝です。
目ぼしい観光スポットは、昨日あらかた周っちゃいましたんで、今日はちょっとゆっくりめ。
とは言っても、帰りの電車の事もあります。「アッチだ、コッチだ」とあまりギューギューには詰め込めません。行けても2つか3つてトコでしょうか。
そういった訳で、これから日本近代化の礎、ジャパニーズ・ルネサンスの魁である出島を巡ります。
ルネッサ~ンス!!
……無理して流行りに乗ろうとするの、やめた方がいいと思うよ。
えぇやないか~い!!
……はぁ。


画像長崎の出島といえば、鎖国の時代にあって唯一外国に開かれた場所で、ここから西洋の珍しい品々や文化が日本にもたらされたというイメージを抱く人が大半でしょうが、実はそれが目的で作られた場所ではなかったのです。本当の存在理由は、江戸幕府がキリスト教の布教を阻止する為、長崎市内に雑居していたポルトガル人を収容・隔離するのが目的でした。
秀吉に代わって天下を治めた徳川家康は、一旦はキリスト教の布教を許可します。が、爆発的に拡大する信者に恐れを抱き、加えてポルトガル商人が本国に「日本は我が手中にあり」と伝えた事から、「キリスト教布教の目的は日本の征服・植民地化にあり」と判断、慶長18(1613)年に再び日本全土にキリスト禁教令を発布し、元和2(1616)年には明国船以外の外国船の入港を長崎平戸に限定します。(鎖国時代の始まり)
寛永13(1636)年、長崎市内に人工島(出島)が完成した事を受けて、宣教師など貿易に関係のないすべてのポルトガル人とその妻子を国外に追放し、残るポルトガル商人を出島に封じ込めました。(第4次鎖国令)
その翌年に起こった島原の乱で、天草四郎率いる反乱軍にポルトガルが加勢した事が引金になり、寛永16(1641)年、ポルトガルとの国交を断絶。すべてのポルトガル人を国外追放にしました。(第5次鎖国令)
これにより、出島は無人島となってしまいますが、治安の悪化と街の荒廃をおそれた長崎の人々からの訴えを受け、寛永18(1641)年、平戸にあったオランダ商館を出島に移転します。その背景には、島原の乱でオランダが幕府に協力し、天草軍が籠城する原城を砲撃した事で、幕府からの信頼を勝ち得た事が大きく影響しています。
オランダは、出島への移転を足掛かりに、日本が開国を迎えるまでの約200十数年間、日本における貿易権を一挙に独占しました。
つまり、出島は外国人封じ込めの場所で、日本で唯一の対外貿易の場所というのは、あくまで副産物だった訳です。とはいえ、出島が日本の近代化に重要な役割を果たした事に変わりはない訳です。
当然、出島を抱える長崎は天領――幕府の直轄地。
そりゃあそうだよね。どこかの藩に預けたんじゃ、得られた外貨で力を付け、いつ幕府転覆を狙ってくるかわからないもんね。幕末にあって、薩摩・長州が力を付け、幕府が倒壊した理由の一つに、バタバタと相次いだ開国が影響してるってのも、何だか肯ける気がします。
時代は明治に入り、長崎を近代的な貿易都市に改良しようとした明治政府の意向もあって、出島の周囲はどんどん埋め立てられ、明治37(1904)年の第2次港湾改良工事では、その扇形をした姿を完全に消し、市街地の中に埋もれていってしまいました。
なくなったらなくなったで、その歴史的価値を後世に残すべきだと主張する人も出始め、大正11(1922)年には「出島和蘭商館跡」(あくまでも〝跡〟な訳です)として、国の指定史跡となりました。
今ある出島は、長崎市の市制100周年を記念した事業の一環として、数々の文献を手がかりに、平成18(2006)年に復元・一般公開されたものです。今現在は、カピタン部屋(オランダ商館長邸)や倉庫など10棟が復元されていますが、将来的には合計25棟の建造物を復元する計画とか。

大波止ターミナルから国道499号線をてくてくと。
「カステラ一番 電話は二番~♪」でおなじみの文明堂カステラ本店を横目に、中島川に架かる玉江橋を渡ります。出島へは、橋を渡ったすぐにある、復元成った水門から入ります。水門には南北二つの通り口があり、かつては南側が輸入用、北側が輸出用にと分けられていました。今は南側が入口、北側が出口といった具合に分けられています。
中に入ると、通りを挟んで北側には貿易船の船員や商館員の居宅、輸入品を収蔵する蔵が並び、南側にはカピタン(商館長)やヘトル(商館長次席)の住居が建ちます。
画像山型の階段が特徴的な『カピタン部屋』は、商館長の事務所や住居として用いられた出島最大の建物です。〝部屋〟とはいっても建物の一室の事ではなく、その建物すべてを指します。
1階は出島の歴史や暮らしぶりを紹介する展示室になっています。
前述のとおり、出島という場所は外国人隔離が目的でしたので、ここで暮らす商船員たちが長崎市中に出る事は禁じられていました。逆に日本からも、幕府役人や御用商人、荷揚げを手伝う人足など許可を受けた者を除き、出島へ入る事は許されませんでした。その体制が崩れたのは安政2(1855)年の事。日蘭和親条約の締結によりオランダ人の拘束が解かれ、続く安政5(1858)年の日蘭通商条約の締結で、日本人も自由に出入りできるようになりました。皮肉にもその事が出島の今後の運命を決定づけてしまいます。フランス革命軍の侵攻によるオランダ本国の消失(ナポレオン戦争後に復権)や親会社である東インド会社の解散といった不遇の時代をくぐり抜けてきたオランダ商館も遂に閉鎖され、出島は終焉を迎えます。
東インド会社――懐かしい響きですねぇ~。中学・高校の歴史の授業を思い出します。二度とお目にかかる事もないと思ってたら、こんなトコにつながってたんですねぇ~。
2階は各部屋ごとに当時の家具・調度品などが展示され、カピタンの暮らしぶりを再現しています。案内板も、ただ文字だけを連ねてあるだけじゃなく、アニメを交えた映像で当時の生活をわかりやすく紹介しています。襖張り畳敷きの部屋にシャンデリア、障子戸を開けた先にバルコニーなど和洋織り交ぜた屋敷。寝室に吊られた蚊帳の中に置かれてるベッドなんてのは、和洋折衷の最たるものじゃないでしょうか。
壁紙ひとつ取ってみても、遠くからだと、いかにも西洋風な幾何学的文様に見えるものが、よくよく近づいて見てみると松の木や楓の葉だったりと、思いっきり和風だったりします。
ちょっとしたところに隠れている和洋折衷、探してみるのも面白いかも。
画像35畳もの広さのある「大広間」は、食堂でもあり、幕府役人や大名などが出島を訪れた際の接待の場所でもありました。それを物語るように、テーブル上にはクリスマスを祝う食事風景が再現されています。
このフルコース、題して「阿蘭陀冬至」

…………

……まぁ。
まぁまぁまぁ。
江戸時代の日本人ですもの。クリスマスなんて知らないし、そういう概念もないんでしょうね。
とはいえ……よりにもよって〝冬至〟かよ……。
このいかにも日本的考え方ってどぉなの?
メインの御料理は〝ボアーズヘッド〟――いわゆる豚の頭の丸焼きです。役人など日本の招待客には、珍しい西洋料理は大変喜ばれたそうですが……ワタクシめが招待されたら、目一杯退いちゃうなぁ~。いきなり目の前にドン!と豚の頭が置かれた日にゃあア~タ……ねぇ?
映画やドラマなんかだと、よく西洋人が日本人の事を「野蛮な種族」なんて言うシーンがありますけど、僕に云わせれば「アンタらも人の事言えねぇよ?」と。
画像大広間に続く南向きの「涼所」は、歴代カピタンが最も気に入っていた場所。
総板張りの床に全面ガラス張りの窓。屋敷の中で唯一風が吹きぬける部屋だったそうで、カピタンならずともいつまでもずっといたい空間です。
かつてはここから港を一望できたそうですが、周囲を埋め立てられた今では、港はおろか向かいに建つビルしか見えません。それ以前に古くて崩れる危険性があるからと、バルコニーにも出られません。
惜しい。
潮風は吹きませんが、エアコンの風は吹くという(笑) それでも、今も昔も一番涼しい部屋には変わりはない、と。
ベンチに腰掛けてると、歴代カピタンがこの場を離れたくなかった理由もわかりますね。
ちょっと気に入ってしまったかも。

画像画像














カピタン部屋のすぐ裏手には、日本側の世話役である〝出島乙名(おとな)〟の詰所『乙名部屋』が建っています。
乙名は長崎奉行の管理下にあって、貿易の監督や出島で働く日本人の監視、出島に出入りする為の通行許可書の発行など出島における事務方一切を司っていました。といっても幕府の役人という訳ではなく、出島を築いた〝出島町人〟の中から選ばれていました。今に例えるなら外務省傘下の公益法人といったトコでしょうか。もちろん天下りナシで(笑)
乙名部屋の中は非常に日本的です。詰所ってより、どこか商家の帳場的な雰囲気がしなくもないですが。
「出嶋乙名」の名入り提灯が泣かせますね。チョット冗談っぽく見えますけど。

画像カピタン部屋のすぐ隣には、副官であるヘトル(商館長次席)の住居『ヘトル部屋』があります。ペパーミントグリーンの塗装も鮮やかなテラスと物見台が特徴的な建物ですが、残念ながら外観のみで中身はウソッパチ(笑)
いやいや、そうじゃなくて。
1階は総合案内所やミュージアムショップ、2階は講習会などが開ける研修室になっています。修学旅行や校外研修などで訪れた学生さんは、ここでガイダンスを受けてから見学にまわるんですかね。
このヘトル部屋にはエレベーターが設置されていて、隣のカピタン部屋とは2階の通路でつながっています。ですから、車椅子で訪れた方でも、安心して散策できるようになっています。
漆喰壁と板張りの町屋風造りのヘトル部屋。最大の特徴といえば、やはり南面に張り出した物見台。出島で一番見晴らしのいい場所だっただけに、交易船が長崎の港に出入りする度、ここに上がってその様子を眺めたり、時には遠くオランダ本国に思いを馳せる事もあったんでしょうね。
……これで洗濯物が常時干してあったりしたら、何かヤダ(笑) 「結局は物干し台かよ!」みたいな。

画像ヘトル部屋の裏手には、商館員たちの食事を一手に賄う厨房『料理部屋』があります。
西洋仕立ての銅鍋もあれば、日本の水甕や中国の壷があったりと、世界中のいろんな調理器具が混在し、キャベツやトマトなど世界中のありとあらゆる食材が溢れ返っています。
ここでいったいどんな料理が作られていたんでしょう――て、一目瞭然ですがな。間違っても筑前煮なんか作られてないはずだ(笑) やっぱり肉料理中心だったんだろうなぁ。出島の出入り画家だった川原慶賀が描き残した絵にも、捌かれる豚が何頭も描かれてるし。
ここで1日2回作られる料理は、カピタン部屋の2階大広間に運ばれ、商館員たちの胃袋を満たし、時に賓客をもてなしました。
ふ~ん、この頃は1日2食だったんだぁ……
つーか、やっぱり豚の頭は見慣れない人にとってはグロテスクだよね。御丁寧にも口の中にリンゴなんか詰め込まれちゃってさ。

ヘトル部屋の向かいには、オランダ商船(一番船)の船長が、長崎に寄航している際の居宅として使用した屋敷『一番船船頭部屋』が建ちます。1階が倉庫兼の土間、2階が畳敷きの居室、と職住一体の屋敷でした。
1階の土間には、木炭や積荷の不良品が積まれている他、当時使われていた物と同型の天秤台とその分銅が展示されています。この天秤、オランダでは伝統的なもので、オランダ最古の工科大学であるデルフト工科大学の計量博物館から寄贈されたもの。1820年の刻印があるそうなのですが、すぐそばで見る事が出来ませんので、どこにその刻印があるのかは知りません。写真展示もありませんしね。
画像画像














2階は東西に隔てられていて、西側が交易船船長の宿泊所、東側が商館員の居宅に充てられていました。畳敷き障子張りの部屋に、ヨーロッパ直輸入の家具を無理やり押し込めた様は、やっぱりどこか滑稽であります。
どぉ~でもいいけど、このベッド小さ過ぎね? 最初見た時、子供の揺り籠かと思いましたよ。こんなベッドに大男が寝たら、絶対に足がはみ出すよね。
商船は旧暦7月に長崎に入港し、9月20日までに出港するのが通常だったそうで、船長が出島に滞在するのは約2ヶ月の間だけ。云うなれば仮住まいというよりホテル住まいに近いですかね。そんな短い滞在期間なのに、せっせとお気に入りの家具や調度品を運び入れてたのには訳があります。通説では、この一番船の船長が次期商館長に就任する事になっている為、その下準備として少しずつ運び入れてたんじゃないか、というのです。
「目の前でそんな事されてたんじゃ、カピタンも気が気じゃないよね」と思いきや、カピタンはカピタンで、日に日に迫る本国帰還を密かに心待ちにしてたとか。
どっちもどっちか。ふぅ。
一番割に合わないのがヘトルですね。そんな通説があるんなら、どんなに頑張ったって、次席から商館長に昇格する目はないんだから。もしあるとすれば、任期中にカピタンが急死して、止むを得ず交代するくらい。
出島カピタン殺人事件 ジャンジャンジャ~ン♪
あはは、ないない(笑)

画像船頭部屋から東へは、輸入品を納めていた土蔵が3棟続きます。
一番手前の一番蔵には砂糖が、二番蔵には蘇木(染剤の原料)が、一番奥の三番蔵には、それ以外の輸入品と個人で売買する品々が保管されていました。
現在、一番蔵では出島の復元工事の過程を紹介。発掘調査で見つかった当時の礎石などが公開されています。
二番蔵は「貿易館」と銘打って、出島から輸出入された品々について、様々な資料を基に紹介されています。
三番蔵は、当時の倉庫の模様を再現しています。
出島で取引されていた物は、主に生糸や羅紗などの繊維品・染木・香料・薬等々。日本でも生糸の生産が増大した18世紀初めには、生糸に代わって砂糖が主力製品として輸入されるようになりました。
もちろん江戸以前から、奄美や琉球などから黒砂糖はわずかながら入ってきていましたが、白砂糖は大変珍しく貴重な物でした。当然ながら幕府の保護品目で、この長崎以外で一般庶民の口に入る事は、一生にあるかないか。……まぁ、白米ですら、庶民の口にはそうそう口には入らなかったらしいですからね。こういった贅沢品だと尚更の事でしょう――て、砂糖が贅沢品かい……
他にも、象牙やビードロ(ガラス)製品、学術品(地球儀や天体望遠鏡、顕微鏡など)などが持ち込まれていました。船員たちの中には、小遣い稼ぎの目的で自分の荷物の中に紛れ込ませ、個人的に売買していた者も少なくありません。「大量持込は禁ずるが、少量ならば構わない」と、船長も長崎奉行所も黙認していたとか。密貿易禁止が聞いて呆れる(笑)
この他に「え!? こんな物まで?」と驚くような輸入品も。
例えばヤマアラシ、オランウータン、ラクダ、虎、象……
大半は将軍献上品だったり、見世物として日本各地を巡業したりしていたそうです。いわばサーカス団や移動動物園のようなものですね。ラクダなどは過去3回も輸入され、江戸や大坂など各地を巡業し、大好評を得ていたとか。
これらの動物、普段は出島の庭園内で放し飼いにされていたとか。
……トラやゾウを放し飼いにするってか!?
いやいや、さすがに檻で囲っていたでしょうよ。
植物では、ヒマワリやダリア、マリーゴールドなどの観賞用植物、トマトやジャガイモ、パイナップルなどの野菜や果物も輸入されていました。キャベツ・パセリ・アスパラガスなども一緒に輸入されましたが、当初は野菜ではなく観賞用植物として入ってきたのでした。(食用として伝わるのは幕末から明治にかけての頃)
また、本来は積荷のクッション材として詰められてきたクローバー(シロツメクサ)が根を下ろし、日本各地で繁殖していきました。コレもある種〝輸入〟ですよね(笑)
今では普通に見かける草花や野菜が、この時代に出島から伝わったというのも、何だか面白い話ですね。
一方、日本からは、銅・陶磁器・漆器などが輸出されました。当初は銀も輸出されていましたが、やがて輸出が禁じられ、代わって解禁になった金(小判)も年々質が悪くなるという事で敬遠されるようになり、銅が主力輸出品に挙げられるようになりました。日本から輸出された銅は、インド市場で売買され、ヨーロッパでの貨幣の原料となりました。
ナルホド、西洋からは食料などの生活必需品が輸入され、日本からは貴金属や美術工芸品が輸出された、と。
どこも構図は同じですな。
画像あと、〝輸入品〟ではないんですが、この時期に日本に入ってきた物。
バドミントン。ビリヤード。ビール。コーヒー。
すべて商館員たちが余暇に興じていた物を、後に日本人が広めた物です。余暇といっても、商船が出港して次に入港してくるまで、9ヶ月も持て余す事になるんですけど。『デカンショ節』でも半年は働いてましたから、それ以上の待遇だ(笑)
バドミントンは、ヨーロッパで広まる以前から「紅毛羽子板」として、日本に紹介されていました。もっともその頃は、バドミントンではなく「プーナ」(このゲームが行なわれていたインド植民地の地名から。元々はインド人の間で行なわれていたゲームらしい)と呼ばれていたそうですが。
ビリヤードは、明和4(1764)年には既に玉突台が商館内に据え付けられていたくらい大人気で、川原慶賀が描いた『蘭館絵巻』にも、ビリヤードに興じる商館員たちの姿が描かれています。
ビールは鎖国以降に入ってきたらしく、オランダ人はワインよりビールを愛飲したそうです。フランス革命の余波を受け、本国からの船便が途絶えた時などは、自力でビールの醸造を試みたという話です。……そんなに好きか(笑)
コーヒーは、江戸の初期には日本に入ってきていました。当時入荷していたのは、アラビア産のモカだという話です。当初、日本人からは「黒くて焦げ臭い、ただ苦いだけ」と敬遠されてきましたが、文政年間(1820年頃)にはかなりのコーヒー党がいた様子。あの坂本龍馬も、長崎滞在中はよくこの〝紅毛かうひぃ〟を飲んでいたとか。
他にもウンスンカルタ(トランプのようなカードゲーム)やレンガ、ボタン、チョコレートなどが出島から日本へ伝えられました。
開国後、神戸や横浜にその座を奪われるまで、まさに出島は西洋文化の発信地だったのですね。

三番蔵の隣には、オランダ人書記長の住居だった『拝礼筆者蘭人部屋』が建っています。館内では出島から入ってきた蘭学の数々を紹介しているので「蘭学館」とも呼ばれています。
蘭学の対象とされた学術・技術は、語学はもとより、医学、天文学、西洋史などの自然科学や人文科学、兵学や測量技術、航海術など、多岐にわたっていました。これらは書籍だけでなく、医療用具や実験用具、模型などによっても伝えられました。中には、日本人の職人たちによってその仕組みが研究され、日本でも製作が試みられ、さらに改良されていったものもありました。
画像館内には、〝蘭学といえば医学〟といわれただけあって、様々な医療器具や医学書、製薬に関する品々が展示されています。また、地球儀や天球儀、測量儀、天体望遠鏡、顕微鏡、幻灯機など、当時の西洋でも容易に手に入らなかった珍しい品々も展示されています。
中でも目を惹くのが、この機械時計です。
日本でも昔から時を測る物として、日時計や水時計などがありましたが、こういった機械仕掛けの、より正確に時を測るものはありませんでした。これらの時計は、しばしば将軍家や大名などに献上されていましたが、実用的なものというよりは一種の美術工芸品としての価値の方が尊重されました。
本来の、時間を正確に測る〝時計〟としての価値が高まったのは、明治5(1872)年の太陽暦導入以降ともいわれています。
この他に、平賀源内で有名になった『エレキテル』や、杉田玄白が著した『解体新書』の原書『ターヘル・アナトミア』なども、この出島から日本に伝わったのでした。
「あれ? 『エレキテル』って、平賀源内が発明したんじゃなかったの?」
と思われた方、残念ながら源内先生は、『エレキテル』を〝復元〟しただけで〝発明〟した訳じゃなかったんですね。とはいえこのエレキテル、本来は医療用電気治療器だったはずが、パシパシと電気火花が散るのが面白いと、見世物として広まってしまったんです。本当の使い道を知っていたのは源内先生だけ。いや、惜しい!
ともあれ、江戸時代における蘭学は、見るもの聞くものすべてが謎に満ちた、好奇心をそそる学問だった訳です。そらぁ挙って夢中になるわな。


やぁ、しまった。まだ半分しか紹介してないぞ。
後半へ続く――「ちびまるこちゃん」かい!(笑)

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