完璧に試験に出ない石川県・富山県

すっかり〝城に始まり城に終わる旅〟になってしまいました今回の旅、シメは金沢城に参ります――と云ったって兼六園のすぐ真向かい、桂坂口の真ん前なんですけどね。
歩いて5分。なんだこの近さは?(笑)
まぁ、兼六園って元々は金沢城の庭だったんだから、当然っちゃあ当然なんですけど。

天文15(1546)年、加賀一向一揆によりこの地を治めるようになった一向衆が拠点としたお寺・尾山御坊(金沢御堂とも)が金沢城の元になります。お寺といっても、空堀や柵などを備えた城仕立ての寺院、いわば要塞寺院でした。これを、天正8(1580)年に佐久間盛政が攻め落とし、自らの城としました。この時、名を金沢城と改めています。だから、これが金沢城の始まりになるんでしょうかね。
天正11年、賤ヶ岳の戦いで盛政は柴田勝家陣営につき、秀吉と戦いますが敗北。秀吉から家臣になるよう誘われますが、信長・勝家に大恩ある盛政はそれを断り、京都・宇治で斬首になります。主のいなくなった加賀国に前田利家が入国。以来、加賀国は明治を迎えるまで前田家が治める事となります。
天正15(1587)年、利家は伴天連追放令により所領である明石を追われたキリシタン大名・高山右近を迎え入れ、右近の先進的な築城技術により、金沢城の大改築に乗り出します。それが今の姿の基盤になったと伝えられています。
大改修当初は立派な天守閣も存在しましたが、慶長7(1602)年に落雷により焼失してしまいます。その後、天守閣は築かれず、代わりに三階櫓が築かれましたが、これも度重なる火災で焼失。現在ある長屋風の形になったのは、文化5(1808)年の二の丸火災の後です。
やがて明治を迎え、廃城となってからは帝国陸軍第7連隊が駐屯しますが、明治14(1881)年の火災で、石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫以外のすべてが灰塵と帰してしまいます。
平成11(1999)年に始まった金沢城復元整備工事により、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓が再建され、現在、河北門の復元工事が最終段階を迎えています。
金沢城の中核を成す二の丸御殿の再建は、資料の解読に時間を要するという理由から、「現時点では困難」という判断が出されています。

画像金沢城といえば、この石川門があまりに有名ですし、金沢城公園の入口にもなっているので、こちらが表門(他のお城で云う大手門)だと思われがちですが、実は思いっきり裏口です。意外でしょ?
石川郡の方向を向いていた事から名づけられたこの石川門、型式的には桝型門で、表門・多聞櫓・渡り櫓・菱櫓・太鼓塀から構成されており、これらをまとめて「石川門」と呼んでいます。この石川門も築城当時のものは宝暦9(1759)年の大火で全焼し、現存するものは天明8(1788)年に再建されたものです。
これは金沢城の建物全般に共通する事ですが、北陸の厳しい風雪に耐えられるよう、城壁の剥き出しになった木材部分には銅板や鉛板が、土壁の上には漆喰や瓦が貼り付けられています。遠くから見るとまるで〝なまこ壁〟のようです。また、屋根瓦は普通の土瓦ではなく鉛瓦が用いられています。白っぽい屋根の色は鉛の色だったんですね。
鉛瓦というのは、木で屋根を作り、その上に厚さ1.8mmの鉛板(強度向上・耐酸性の目的で、少量の銅が混ぜられています)を貼り付けたものです。こうする事で、屋根全体にかかる重量を軽減化し、豪雪にも耐えられるようにしているのです。北国ならではの知恵ですね。
鉛瓦を用いた理由には別な面もあります。一つには「名城の姿を壮美にする為」で、一つには「有事の際に溶かして鉄砲の弾に転用する為」です。まさに戦う城、一石二鳥も三鳥もあったんですねぇ。
ところで、屋根に鉛なんか使って、鉛毒は大丈夫だったんでしょうか? 長年の雨雪で少量ならずとも溶け出さなかったんですかね。
画像再建された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓は、明治以降に建てられた木造城郭建築物としては全国最大規模のものです。
3層3階の菱櫓と橋爪門続櫓を2層2階の五十間長屋でつないでいます。菱櫓は大手と搦手を見張る物見櫓、橋爪門続櫓は二ノ丸大手の橋爪門枡形を見張る物見櫓、五十間長屋(実際には五十間もないそうですが)は武器等の倉庫でした。これらの建物は、戦の際に二ノ丸を守る為の施設で、石落しや鉄砲狭間となる格子窓、白塗漆喰壁やなまこ壁で防火構造になっている外壁がその強固さを示しています。
菱櫓は、その名のとおり全体が菱形の建物です。中の柱まで菱形です。これは、比較的守りが手薄な大手門方向を広角に見張る為、わざとこういう形にしたんだそうです。出来るだけ死角をなくそうとする努力は、函館の五稜郭に通じるものがありますね。
そもそも金沢城は、籠城して持久戦に持ち込む為の城ではなく、金沢の街を一つの防衛拠点として位置づけ、その中心となるものでした。いわば作戦指令所。実際の防衛戦は、市内の至る所に戦略拠点となる寺院を建て、そこを軸に戦う作戦だったようです。その発想は、やはり一向衆の築いた城仕立ての寺院が元なんでしょうね。
もっとも、利家の築城以来、実際に金沢の街が戦場になる事はなかったようですが。戊辰戦争の時も、当初は徳川慶喜を支持してましたが、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、一転して新政府軍に帰順してます。ですので、実際どれだけ強固な城だったのかは定かじゃありませんね。

金沢城には、もう一つの見どころ、楽しみ方があります。
それは石垣。
城内の石垣を見て回ると、実に様々な積み方がされている事がわかります。大別して3種類。
自然石をほとんど加工せず、そのまま積み上げた「野面積み」。この技法は、古い時代の石垣に多く見受けられ、城内では東の丸跡(鶴丸倉庫のそば)北面の石垣がこれに当たります。築城初期の金沢城の姿を今に伝える貴重な資料ですね。
次に、城内の至る所で見られるのが、形や大きさを揃えた割石を積み上げ、空いた隙間に大小の石を埋め込んで築いた「打ち込みハギ積み」という技法。
それから、石の接合面を綺麗に面取り加工して、隙間なく積み上げた「切り込みハギ積み」という技法。まるで測ったようにピタッと組み合わされた石垣は、それだけで芸術品の一つのようです。
「打ち込みハギ」「切り込みハギ」は、ともに寛永年間(1624~1643)以降に出てきた技法で、かつ同時期に存在した事から、技術の進歩というよりは、用途により使い分けられたと考えられています。例えば「打ち込みハギ」の多くは城郭の外周などに使われ、「切り込みハギ」は出入り口など重要な部分に用いられています。
こうした石の積み方を見ると、時代の変遷とともに金沢城改修の歴史などが推察されます。
時代毎に特徴のある石垣が見られ、〝石垣の博物館〟とも呼ばれる金沢城。これはまさに「石垣のエレクトリカル・パレードやぁ!」(by 彦麻呂……?)てなもんであります。



駆け足で駆け抜けた1泊2日の金沢・富山の旅。
今度は春に訪れたいですね。
天然記念物の兼六園菊桜を見てみたい。
実際に泳ぐ――というか光るホタルイカが見てみたい。
富山湾の蜃気楼も見てみたい(アレ、春にならないと見られないんですってね)。
どうせなら能登の方も回ってみたいなぁ……

ホラ、もう「春の青春18きっぷ」の計画が決まっちゃった(笑)

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