松山散策~漱石・子規・秋山兄弟

画像『坂の上の雲ミュージアム』の裏手に、松山藩主の子孫である久松定謨(さだこと)氏の別邸として建てられた洋館・萬翠荘が建っています。現在は愛媛県美術館分館として利用されています。
そのさらに裏手、小高い丘をさらに登った先に、2階建ての一軒の家が建っています。夏目漱石が松山中学校に英語教師として赴任していた際に下宿していた家で、『愚陀仏庵』と名付けられています。〝愚陀仏〟というのは漱石の俳号です。
実際にはもっと街中(二番町)に建っていたそうですが、昭和20年7月の松山大空襲で焼失。昭和57年に、この場所に復元されました。
別に何の脈絡もなくここに建てられた訳ではありません。松山赴任当初の漱石、萬翠荘の隣にあった小料理屋『愛松亭』の離れに居を構えていたのです。そういう意味では、あながち縁遠い場所ではありません。
間取りは1・2階とも六畳と四畳半。漱石が暮らしていた頃はもう少し広く、八畳と六畳だったとか。復元に際して、一回りほど小さくなってしまいましたが、当時の雰囲気はそのまま残されているそうですから、雰囲気だけでもお楽しみ下さい。
実を云うと、正岡子規が肺結核療養の為に故郷の松山へ帰っていた折、50日余り居候していたのも、この家です。
居候当時の子規、病人でありながら、主人である漱石を余所に1階を占拠。勝手にツケで出前を取り、その代金を漱石に払わせようとするなど、我が物顔で暮らしていたそうです。
漱石曰く、子規は〝お山の大将〟志向の強い人物で、常に人の上、人の中心にいないと気が済まなかったそうです。それは、例え床に伏せていても同じ。毎日のようにいろんな文化人が訪れては、俳句会などを催していたとか。
例えば。
子規と幼なじみで親友の秋山真之が、共に私塾で教えを請うたのが河東静渓という俳人。その息子である河東碧梧桐が子規に弟子入りしています。教え教わり、因果は巡る。
また、子規も活躍した俳誌「ホトトギス」の育ての親と云われている高浜虚子は、子規の後輩でもあり、門下生でもあります。
そんな状況下を漱石自身も楽しんでいた節があり、こうした文化人との交流の中で、文学表現の面白さに目覚めたといい、小説『我輩は猫である』を生み出す原動力になったといわれています。
明治の二大文豪が生計を一にしていたのが、こんな小さな家だったというのも、何だか面白い話ですね。

画像松山生まれの正岡子規、その生家は〝いよてつ〟松山市駅の近くにありましたが、今はパチンコ屋の前に石碑が残るだけです。
まぁ、そうは云っても、子規がここで暮らしていたのは2歳まで。上京する17歳まで暮らしていた家は、湊町にあったそうです。ただ……そこも今は「中ノ川通り」という4車線道路となっていて、中央の緑地帯に石碑が残されているだけです。
「何だい、結局のところ石碑しか残されてないのかよ」
そう思われたアナタにお教えします。
松山市駅の南、正宗寺というお寺の境内に、当時の子規の住居が復元されています。『子規堂』と名付けられたこの建物には、幼少の子規が勉学に勤しんだ書斎を模した部屋があり、子規の遺墨や直筆原稿などの遺品、写真などが数多く展示されています。
子規といえば、自分の幼名〝升(のぼる)〟に因んで「野球(のぼーる)」という雅号を用いた程の大の野球好き。床に臥す生活になるまでは、キャッチャーとしてプレイに興じていたとか。
あの細い体で、よりによってキャッチャーかい。〝お山の大将〟な子規の事だから、てっきりエースで四番かと思ってたのに。でもまぁ、掛け声一つで内外野を自由自在に動かすキャッチャーってのも、子規らしいと云っちゃらしいけど。
日本にやって来たばかりの「ベースボール」を「野球(やきゅう)」と訳したのは別人ですが、今でも使われる〝打者〟や〝四球〟などの野球用語を和訳したのは子規。また、野球を詠み込んだ俳句・短歌を数多く残し、文学を通じて野球の普及に貢献したという功績が認められ、今から5年前には野球殿堂入りを果たしています。
そんな子規の野球に因んだ歌碑が、子規堂の向かいに建てられています。その隣には、夏目漱石が小説『坊ちゃん』の中で「マッチ箱のような汽車」と表した、伊予鉄道開業当時の客車車両が展示されています。子規や漱石がこの車両にガタゴト揺られながら道後温泉に通った昔に思いを馳せると、何だか切ない気分になります。
「正岡子規についてもっと知りたい」という方は、道後温泉にある『子規記念博物館』に行ってみるといいでしょう。

画像大街道から、「ロープウェイ街」と名付けられた商店街を行きます。行き着いた先には、松山城へ登るロープウェイの駅があります。
その途中、案内板に従って右に折れると、日露戦争の勝利に多大な功績をもたらした秋山好古・真之兄弟の生家が復元されています。
一見「ここは寺か?」と思わせる建物ですが、寺の本堂ではなく武道場でした。生家は、その隣に建つ長屋風の家屋の方でした。
兄の好古は、日清・日露戦争を通して日本の騎兵集団を育て、「日本騎兵の父」と呼ばれました。最終は陸軍大将。
弟の真之は、卓越した観察眼が軍上層部の目に留まり、連合艦隊司令・東郷平八郎の片腕(作戦参謀)として日露戦争に参戦。帝国海軍に近代的戦略を浸透させ、後年「海軍に秋山あり」と云われるまでになります――といっても、それは最近の話で、その功績は長い間、東郷元帥のものとされてきました。それを世に伝えたのが、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』だったのです。
ロシア・バルチック艦隊を破った日本海海戦で有名な

          「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
          「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ」

の電文を考案したのも真之です。最終は海軍中将。
好古と真之の兄弟関係は、まるで師弟のようだったと伝えられています。それは、広場に向かい合って建つ二人の銅像からも見て取れます。兄を敬愛の情で見る真之。そんな弟を慈しむように馬上から見つめ返す好古。
住居部は、八畳間が二部屋、六畳間が二部屋。そこに土間の台所と、ちょっとした庭。非常に質素です。ある意味、粗末と云ってもいい。とても松山を代表する英傑が生まれた家とは思えない程です。
座敷は、好古が住んでいた当時を忠実に再現されています。目を惹くのは入口の部屋に置かれた鎧兜。実際にここに置かれていたそうで、秋山家から寄贈を受けた物だそうです。
この生家も、松山大空襲で焼失。昭和初期に撮られた写真と、子孫からの聞き取り調査を元に、3年前に復元されたものだそうです。道理で、今にも木材の匂いがしそうなほど真新しい訳だ。
ただ……イマイチ馴染めない展示施設でしたね。解説を担当した係員の方の説明の仕方もそうなんですが、秋山兄弟の功績を顕彰するというより、〝軍神〟として崇め奉る風潮が強いような気がします。
もう少し普通に出来ないんですかねぇ~。

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