京都で遊ぼう~一休寺

画像また京都じゃないし(笑)
ここは京田辺市にある酬恩庵一休寺。
あのトンチで有名な一休さんが、晩年を過ごしたお寺です。
一休さん縁りの寺だけあって、一休さんに因んだ品物が数多く存在します。
虎退治した屏風はありませんけどね(笑)

で。
一休さんが着用していた袈裟なんてのもあるんですが、色褪せ、傷みも見られるように。
そこで600年ぶりに複製・新調され、明日(9月2日)まで新旧併せて一般公開される事になりました。
これが今回の旅の目的の一つ。
この先、本物は宝蔵の奥に仕舞い込まれ、人目に触れる事はなくなるだろうから、今のうちに見といて損はないかと。
……まぁ、見たからってどうって事はないですけど。
(全否定かよ!)


一休さんは、実は後小松天皇の子供で、世が世なら皇太子の(あるいはそれに次ぐ)身分。ところが、いつの世も妬み嫉みが元で、陰謀渦巻くのがこの世界。一休さんの場合も例に漏れず、母である照子姫は、謀略により宮中を追い出され、京都・嵯峨野の民家で一休さんを産んだとされています。
一休さん6歳の時、出家して京都の安国寺に入ります。法名は「周建」。この頃はまだ「一休」ではないんですね。
出家の理由は、将来を僧侶にと願った母の考えと伝えられていますが、本当の理由は、皇位継承争いに巻き込まれる事のないようにという母の思いからだった事は、一休さんの立場を考えると容易に想像が付きますわな。
安国寺での修業の後、天竜寺や建仁寺といった由緒ある寺へ移ります。ところが、そこで目にしたのは、財力や権力を得た大寺の傘の下にいる事で、修学を熱心にやらない禅門とその弟子たち。禅の現状への怒りと憂いと失望を胸に、さらなる厳しい修行の場を求め、京都西山の西金寺へ移ったのが17歳の時。この時、法名を「宗純」に改めます。
21歳の時、師事していた謙翁禅師が亡くなります。悲嘆に暮れた一休さん、とうとう瀬田川で入水自殺を図りますが、運良く助けられます。
その後、華叟禅師に師事して、大津・堅田の祥瑞庵に入ります。22歳の時、華叟禅師から「一休」の道号を賜ります。つまり、「一休」の名を使うようになったのは、この時からだったんですね。
36歳まで祥瑞庵で厳しい修行をした後、外の世界へと飛び出し、商人に会えば商人に、武士に会えば武士にと、その場その場で、身をもって自分の修行・会得した事を皆に教え諭しました。
そこで目にした物は、貧困と飢餓にあえぐ庶民たち。その一方で豪著にふける権力者や、庶民の苦しみを救うことのないエセ宗教者たち。それらを目の当たりにして、権威・権力に対する反骨を育てていったのでした。
画像室町幕府が倒れ、応仁の乱が起こると、その戦火を避けるように近畿一円を放浪の旅に出ます。途中、この京田辺・薪の里で、見る影もなく荒れ果てていた妙勝寺が心にかかり、後年になって再建。「酬恩庵」と山号を改め、自らの住処としたのが63歳の時。
81歳の時には、後土御門天皇の勅命により、大徳寺の住職となります。
しばらくは酬恩庵と大徳寺の往復生活を送っていましたが、瘧(おこり=マラリア)の為に、この一休寺で88歳の生涯を終えます。
そういった訳で、一休さんの墓所だけは宮内庁の管轄で、廟所の門扉には菊花の紋の透かし彫りがあります。宮内庁の管理地ですから、当然、一般立ち入り禁止。一休さんの墓所は、透かし窓から覗き見るだけになっています。

さぁ、ここで恒例の「みんなの夢を壊しちゃうぞ」コーナー!!(笑)
一休さんが、小さい時は「一休」ではなかった事は先に述べましたが、他にも「エェ~!? あの話、ウソやん!」という話が。
権威・権力にトコトン反抗していた一休さん、京都の寺社僧侶が着ていた金ピカの袈裟衣を「権威の象徴」として頑として受け付けず、無精髭をたくわえ、質素な袈裟衣で生涯を通したと云います。
また、仏教の戒律で禁じられた飲酒・肉食をしたり、妻帯をしたりと、かなり破天荒なお坊さんだったようです。傍から見れば「破戒僧」と否定的に取られる行いも、その悟りの境涯を現わしたものとして肯定的に評価する〝風狂〟の考えを体現した姿だったとか。
また、一休さんといえば、憎めないバイプレイヤーとして有名なのが新右衛門さん(蜷川新右衛門)ですが、このお方、実在の人物です。が、一休さんと知り合ったのは、後年というか晩年に近い頃。
政所代(今で言う内閣官房長官)という地位にあった新右衛門さん――随分と偉いお方だったんですね――足利6代将軍義教に命じられて一休さんを見張っていたという話ですが、実のところ、寺社奉行という役職にかこつけて、しょっちゅう一休寺を訪れては、一休さんと遊んでたんじゃないかと疑われるほど仲が良かったとか。
さぁ、ここまで来ると、〝トンチの一休さん〟てのも怪しいもんです。桔梗屋さんの「き」の字も出てきません。
まぁ、安国寺時代の一休さんは、数いた小僧・行者の中でも頭の良さはずば抜けていたらしく、機知に富んだ受け答えと根っからの明るさで、たちまち僧堂内の人気者となっていった事から、後世に『一休咄』として伝わったと云います。が、中には一休さんとはまったく関係のない、古来伝承の話なんかも混じっていたと云いますから、どこまで真実でどこまで作り話か定かではありません。
……やっぱり〝トンチの一休さん〟はガセかぁ……?

さて、本日の御題。
一休さん着用の袈裟は、境内の奥、宝物殿に展示されていました。
宝物殿には、一休さんの肖像画、直筆の墨跡や手紙、天皇から贈られた品々などが展示されていますが、本日の目玉はこちらです!
画像画像



















一休禅師着用の袈裟                             600年ぶりに新調された袈裟


調査結果によると、この袈裟は、絹糸で織った明の緞子が使われ、萌黄色と白の布地に「瑞雲」の模様を施し、藍や苅安(かりやす)などの天然染料で染めてあったそうです。 で、今回それを可能な限り忠実に再現したとか。
華美に走った京仏教を嫌った一休さんらしい、質素な袈裟になっています。
「……だから何?」と言われればソレまでですが。
ん~……大騒ぎして見に来るほどでもなかったなぁ~。正直、僕も「……だから?」と思っちゃいましたもの。
モノが袈裟だけに大袈裟に騒ぎすぎました。


……お後が宜しいようで……

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