中世・近代日本の礎 長浜

画像長浜は、かつて〝今浜〟という地名でした。
元は湖北一帯を支配していた浅井長政の領地でしたが、浅井氏滅亡後の天正元(1573)年、浅井長政・朝倉義景の連合軍に勝利した「姉川の合戦」とそれに続く小谷攻めでの功績により、その大部分が羽柴(豊臣)秀吉に与えられました。これが秀吉に初めて与えられた領地です。
一時、小谷城に入った秀吉ですが、すぐにこの今浜の琵琶湖岸への築城を始め、地名も〝長浜〟と改めました。秀吉があえて湖岸に築城した理由は、琵琶湖の舟運を重視した領国経営にあったと考えられています。
この長浜城は、天正10年6月、信長死後の織田家後継を決める清洲会議の席上で柴田勝家に譲られ、勝家の甥・勝豊が入城しましたが、早くもその年の11月には秀吉が奪還。翌年、勝家と戦った「賤ヶ岳の合戦」の軍事拠点としています。「賤ヶ岳の合戦」に勝利した秀吉は、その後、大坂城築城に着手。天下統一への道を走り出しました。
その事から、この長浜城は〝秀吉の出世城〟という異名を取っています。
秀吉が大坂城に移った後、長浜城には山内一豊が入城。一豊が遠州掛川へ移封(土佐へ移るのはその14年後)となった後は、次第に荒廃。元和元(1615)年、湖北支配の役割が彦根城に移った事で、廃城が決定的に。石垣や櫓材は彦根城などに運ばれ、長浜城は完全に姿を消しました。
現在の長浜城は、「〝秀吉の長浜城〟を再興しよう」という市民の熱望によって、昭和58年に再建されたものです。

そんな歴史を持つ長浜城、城見ニストの讃岐屋が見逃すはずがありません(笑) 当然、見に行っちゃいました。
開館時間は朝9時から夕方5時まで。入館料400円。
秀吉と同じく、山内一豊も長浜が最初の領地。という事で『山内一豊と千代・功名が辻展』が特別開催されてました。折も折、今放送されてる大河ドラマが『功名が辻』。まぁ、タイムリーっちゃタイムリーでしたね。
これまた当然ながら、一豊よりは千代の物が多かったですね。絢爛豪華な衣裳や雛人形など、当時の武将の暮らしぶりがよくわかります。まさに「貴重なものを見せて頂きました」という感じです。

さて、近江といえば忘れてならないのが国友鉄砲鍛冶集団。堺と並ぶ火縄銃の生産地として、重要な役割を担いました――なんて偉そうにしてますが、僕もここへ来て初めて知りましたよ。「へぇ~、そぉ~なんだぁ~」の連発でした。
中でも、江戸後期の国友鍛冶である国友〝一貫斎〟藤兵衛重恭は異質でしたね。ひょんな事から英国製グレゴリー式反射望遠鏡を見たのをきっかけに、鉄砲鍛冶から科学者に転向。研究に研究を重ね、日本で最初の反射望遠鏡を製作。月や太陽の黒点の観測を行なっていました。その緻密さ、正確さには目を瞠るものがあり、現在公表されている月面写真などと寸分違わないものでした。
その他にも、万年筆の原型とも云える「懐中筆」、明るく経済的な照明器具「玉燈」、距離測定器「町間見積遠眼鏡」などを発明しています。
国友重恭(国友一貫斎と呼ぶ方が一般的らしいです)――江戸時代の日本には、こんな素晴らしい、隠れた発明者がいたんですねぇ~。平賀源内だけが発明家じゃないんですよ。香川在住の人間が言う事じゃないですけど(笑)

画像長浜駅のすぐそば、長浜の迎賓館とも云える『慶雲館』の向かいに、現存する日本最古の駅舎である旧長浜駅舎を保存した『長浜鉄道スクエア』があります。
『長浜鉄道スクエア』は、明治15(1882)年建造のこの旧長浜駅舎、日本の鉄道の歴史を紹介する長浜鉄道記念館、かつて米原-福井間で活躍したD51型蒸気機関車と、世界初の60サイクル交流電車であるED70型交流電気機関車を保存する北陸線電化記念館の3つの建物から成ります。
開館時間は朝9時半から夕方5時まで。入館料300円。

知られざる歴史。
東京-京都、京都-神戸の次に計画された鉄道建設計画が、長浜-敦賀間でした。日本海と太平洋を鉄路で結び、人と物資の潤滑な流通により、日本の近代化を進めようという明治政府の威信を賭けた大事業でした。

     幹線は、東西両京を連絡し、枝線は東京より横浜に至り、
         また琵琶湖周辺より敦賀に達し、別に一線は京都より神戸に至るべし


日本の鉄道史を語る上で、鉄道唱歌「♪汽笛一声 新橋を~」で知られる新橋-横浜間が、どうしても重要なものに思えますが、実は鉄道史のみならず日本近代化の重要な地点が、この長浜だったんです――なんて、またまた偉そうに言ってますけど、またまたここへ来るまで知りませんでした。
何にも知らねぇんだな、讃岐屋。1個1個学んでけよ。

旧長浜駅舎は、窓枠や階段の手すりなどに明治の匂いを色濃く残した西洋建築です。ビロード張りのソファや暖炉が据付けてある1・2等待合室に比べ、一般庶民が利用した3等待合室は板張りにダルマストーブ。この格差は何なんでしょう。江戸から明治になっても、差別主義は生きていた事の証明ですね。
この駅舎が活躍した頃は、まだ長浜-大津間は鉄道で結ばれておらず、まだまだ舟運が主流でした。明治22(1889)年、東海道線の全線開通とともに長浜-大津間の連絡線が廃止。
明治36(1903)年には駅舎が現在の長浜駅の位置に移動し、それと同時に長浜の鉄道の玄関としての、また日本の鉄道交通の要としての役割を終えました。それまでの20年、長浜の街はどれだけの賑わいをみせていたんでしょう。
『長浜鉄道文化館』は、入口に腕木式信号機、館内には鉄道に関するいろいろな貴重な資料が展示されています。その一方で、1階フロアではトミカレールが、2階フロアではNゲージ鉄道模型が、日本最長のコースを走っています。いろんな意味で鉄道マニア垂涎。
そんな鉄道マニアのヨダレを5リットルくらい奪い去ってしまうようなのが、続く『北陸線電化記念館』です。名前の通り、北陸線の交通の難所である米原-福井間の電化を記念した施設で、先に説明したとおり、D51型蒸気機関車とED70型交流電気機関車が、静態保存ではありますが並んで展示してあります。特にD51は、運転席に上がって見学する事ができますし、ED70型はこれが日本で唯一現存する貴重なものです。
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階上デッキからは、すぐそばを走る北陸線の電車を、絶妙のアングルから見る事ができます。
東の交通博物館もいいですけど、西の鉄道博物館も侮れませんよ。
鉄道マニアの皆さん。サン、ハイ。
      じゅるっ。



秀吉が天下統一の足がかりとし、近代日本の先駆者であった、輝かしい歴史を持つ長浜。
え~……白状します。
わたくし、長浜ラーメンというのは、ここ滋賀の長浜発祥だと信じ込んでおりましたぁ(笑)
長浜は長浜でも、九州・福岡の長浜でしたね。
……赤っ恥ッス。

この記事へのコメント

アップルン
2006年03月27日 08:34
えっ!違うんですか?

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  • 長浜城。

    Excerpt: 滋賀県に出張した際、長浜城周辺を散策した。 Weblog: 五感の結び目。 racked: 2007-03-10 00:41