玉藻城天守閣復元への道~その7~

画像転勤で高松を離れたせいで、すっかり疎遠になってしまった玉藻城址整備計画のニュースですが。
知らないうちに、いろいろと動きがありましたよ。

まずは、石材の緩みや傾き、抜け落ち、石垣全体が大きくせり出す〝はらみ〟などが目立ち、崩落の危険性が最も高かった天守台のニュースから。
平成19(2007)年から解体・地盤補強などの工事を進めてきましたが、今年1月、石垣積み直し工事も無事完了し、往時の迫力ある姿が再現されました。
今回の復元工事では、原則従来の石を元の場所に積み直す方法で実施。解体した石約9千個のうち、割れたものを除く7割を再利用し、当初の高さ約13m(23段)まで積み上げました。さらに、地盤の脆弱さが最下部の石材の傾きや石垣のはらみにつながったと分析。天守台の強度を保つ為、現代の工法をではなく、あえて「枠工(わくこう)」と呼ばれる江戸時代からの伝統工法を用いて、地盤補強がなされました。
「枠工」は17世紀前半から用いられるようになった地盤補強対策の工法で、石垣外側の地面に松の杭を打ち込んで枠を作り、枠中の軟弱な地盤の代わりに石などを敷き詰めて補強します。そうする事で、石垣下部が前面にせり出すことを防ぐのに効果があるとされ、大坂城の築城などにも用いられてきました。石垣の下が砂層で、そのままでは再び石垣が緩む可能性がある高松城には、まさにうってつけの地盤補強方法だったといえるでしょう。
一方、古文書にのみ記され、幻とされていた〝穴蔵(天守閣の1階部分)〟や礎石などが、書かれていた通りに発掘されました。この世紀の発見をつぶさに見られるよう、瀬戸内海を望む北西角に30人ほどを収容できる観覧台が設置される事になりました。
今年度は、観覧台の設置工事や本丸と二ノ丸を結ぶ鞘橋の橋脚補修工事などが行なわれ、2013年度から一般公開される予定です。

ただまぁ、良い事ばかりではなく。
やはりと言いますか、天守閣再建への道は、より険しいものとなりました。文化庁からのゴーサインが下りないのです。
理由は復元史料の乏しさ。
外観は平成17(2005)年にケンブリッジ大学で新しく見つかった写真などで、大まかな概要は把握できたものの、内部構造がわかりません。天守閣を支えていた親柱は1本だったのか2本だったのか、階上へ上がる階段は中央だったのか周回式だったのか、すべて想像でしかありません。
玉藻城址が史跡として指定されている以上、史実に忠実なものでなければ文化庁からの認可が下りません。富山城や伊賀上野城のように観光目的で建てられたものや、模擬天守は建てられないのです。
ところが、明治政府への恭順を示す為だったのか、廃城時にほとんどの文書は焼き捨てられ――よしんば残っていたとしても、昭和20(1945)年7月の高松空襲ですべて焼失してしまったと思われます。
大洲城のように、完全な設計図や構造模型が発見されるといいんですが、望みは薄そうですね。どこかの家で襖の下張りにでも使われてないかしら。

最上階が下の階より張り出している「南蛮造り」と呼ばれる、全国でも類を見ない珍しい形式の天守だっただけに、是非とも復元してもらいたいところですが……こればかりは劇的な歴史上の大発見でもない限り、難しいのかもしれません。

画像天守に連なる本丸の西南角に『地久(ちきゅう)櫓』という櫓が建っていました。
地久櫓は、江戸時代の絵図面や発掘調査の結果から、約14m四方・高さ約8.6mの櫓台の上に2層2階の櫓が建っていたと推測されます。天守や本丸北西角に建っていた『矩(かねの)櫓』との間を回廊型の多聞櫓で結び、本丸南方の守りに睨みを利かせていたと思われます。
現在、琴平電気鉄道(ことでん)の線路が石垣のすぐ隣を走り、一部は高松築港駅の地下に埋まっています。
ここの石垣もはらみがひどく、このまま放置していたのでは線路上への崩落の危険性があった事から、平成11(1999)年度から石垣の解体・復元工事が行なわれていました。ちょうど周辺地区で計画されていた琴電立体交差事業に合わせて、線路下に埋まっている石垣も調査発掘した上で、復元する予定でした。
ところが、この立体交差事業が予算の関係や計画の練り直しなどで頓挫。石垣の解体工事も平成15(2003)年度を最後に中断され、放置されるがままになっていました。
その後、事業の推移を見守ってきましたが、平成21(2009)年、立体交差事業の白紙撤回が発表された事で、埋没部分の発掘調査は困難となり、2012年度から地上部分だけの修理を再開する事となりました。
今後、櫓台の積み直しに向けて実施設計を行なう一方、一部では復元工事が進められる事になります。
……まぁ、復元されたとしても石垣だけですし、その上に櫓が建つ事は天守閣以上に復元資料が乏しいからには、まずありえないんですけどね。
それでも発掘調査の中で見つかった、東西4.8m~5.2m、南北4.3m、深さ1.8mの穴蔵(櫓の地階部分)は、そっくりそのまま復元されます。通常、天守や櫓の穴蔵は石垣の内部を刳り抜いて地下から直接出入りするのですが、発掘された穴蔵は石垣からの出入口がない為、1階から出入りした――櫓の玄関としてではなく、武具等の貯蔵先としての用途だったと考えられます。まさに「穴蔵」だった訳ですね。
立体交差事業が進展していれば、本丸の周囲を濠で囲む、水城らしい光景が再現されたのかと思うと、事業の中止は非常に残念でなりません。高松築港駅がJR高松駅方面へ大きく移転すれば、発掘調査でも内堀の復元でも何でもやり放題なんでしょうけど、それこそ無理な相談ですしね。

画像とは申せ。
「アレもダメ、コレもダメ」といったユメもチボーもない話ばかりでもないのですよ。
三ノ丸の表門となる『桜御門』が、いよいよ復元へ動き出す事になりました。

桜御門は、三ノ丸入口に構えられていた櫓付きの城門です。寛文11(1671)年、藩主の住居や藩政を執り行なう場となる『披雲閣』完成と同時期に建てられたとされています。藩主が披雲閣に移り住んだ事で、城下へ通じる大手門が廃止され、桜御門がその任を担う事となりました。
登城する藩士は、高松城の正門である旭門から城内へ入り、桜の馬場を左手に見ながら桜御門をくぐり、披雲閣で政務に当たっていたものと推測されます。
桜御門の左右には多聞櫓が延びていたのですが、明治末期に取り払われてしまい、櫓門のみが残されてきました。それでも高さ約9m、奥行き約5m、幅が約12m、1階が門扉で2階に見張り部屋となる櫓を構えた勇壮たる姿は、まさに高松城の正門としての威厳を保っていました。しかしそれも、終戦間近の昭和20年7月、高松空襲で全焼。今では石垣と礎石を残すのみとなっていました。
戦前、国宝(現在の規定では重要文化財ランク)指定を目前にしての焼失だっただけに、惜しむ声は高く、再建を望む声も後を絶ちませんでした。
玉藻城址再整備計画の見直しの中で、桜御門復元も協議され、資料整理や度重なる発掘調査の結果、いよいよ2012年度から再建に着手される事になりました。
決め手は豊富な資料。また、昨年12月から行なわれていた発掘調査で、その全容が解明された事も後押しとなりました。
今回の発掘調査では、桜御門の櫓部分を支えた石垣の上面部に、礎石の痕跡が確認出来なかった事や高さ調節の為にノミで加工が残っていた事から、櫓部分は石垣に直接載せた構造だったと推測されました。また、石材に残る焼け跡が建造物の寸法を推測する手がかりとなったり、焼土層の上から出てきた鉄くぎや漆喰片、土壁片が建築材料や工法を検討する貴重な資料になりました。
今後は文化庁との協議を進めながら、基本設計に着手する事になります。
三ノ丸入口、東西に延びる高さ約4mの石垣の上に〝幻の国宝〟桜御門が復元されたなら、往時の城郭の雰囲気が甦る事となり、登城する藩士が見てきた光景を体感出来るようになる訳です。
考えただけでも歴史ロマン溢れる、胸躍る出来事じゃないですか。

そして、桜御門の復元が天守閣復元へのさらなる機運となれば、それは何と素晴らしい事でしょう。
有識者からも「天守や桜御門の復元計画が進んでいるが、建物だけじゃなく、城全体の構造を併せて復元する事が大切」との声が上がっています。
そうです。
桜御門や天守閣が復元されて終わりなのではなく、玉藻城址全体が往時の雰囲気を取り戻して、初めて「玉藻城址復元」となるのです。



いつの日か、高松駅前に玉藻城天守閣が聳え立つ日を夢見て――

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