出雲阿国のお国は何処

画像出雲大社から稲佐浜へと向かう途中、奉納山展望台の入口に『出雲阿国終焉の地』と刻まれた大きな石碑があります。
歌舞伎の創始者とされる出雲阿国は、故郷であるこの場所でその生涯を閉じたのです。
(厳密には、ここから程近い場所に構えた草庵で息を引き取ったそうですが)

阿国は、言い伝えによれば元亀3(1572)年頃、出雲大社の門前町で鍛冶屋を営んでいた中村三右衛門の娘として生まれました。中村家は出雲大社お抱えの鍛冶職で、門の開閉も司っていたそうです。それ故、屋号も「門鍛冶屋」としていました。
(現在の「門鍛冶屋」さんは、鍛冶屋ではなく蒲鉾屋を営んでおりますが)
そういった経緯もあって、阿国も出雲大社の巫女を務めていました。いわゆる縁故就職ですね。
阿国が(推定)10歳の頃、出雲大社修繕の浄財を募る為、一座を組んで諸国巡回の旅に出ました。そこで披露された「ややこ踊り」は、行く先々で評判を呼んだそうです。
その事は『多聞院日記』という文献に、「天正10(1582)年に奈良の春日大社境内で8歳の加賀と11歳の国という二人の童が〝ややこ踊り〟という踊りを披露した」とあります。
(この文献より、阿国の生年を逆算したものが通説となっています。もっとも、「加賀」と「国」は名前ではなく、「加賀国から来た2人」という解釈もあります)
また、『言継卿記』という文献には、「天正16(1588)年に出雲大社の巫女が京都で舞を踊った」とあり、『時慶卿記』という文献には、「慶長5(1600)年に京都近衛殿や御所で、出雲国から来たクニとキクという二人が〝ややこ踊り〟を披露した」とあります。
これらを推察するに、「天正年間から慶長年間にかけて、クニという出雲大社の巫女が京都や奈良で舞を踊った」事は確かなようです。
ちなみに「ややこ踊り(稚児踊り)」とは、小さな子どもによって演じられた踊りの事。阿国一座は、神歌や小唄に合わせて踊りを踊ったそうです。時に、鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らし、「南無阿弥陀」と念仏を唱えながら踊った事から、誰ともなく〝念仏踊り〟と呼ばれるようになったとか。

ここで疑問。
確か阿国は、出雲大社の巫女だったはず。神様に仕える巫女が、どうして念仏を唱えながら踊るの?
実はこれ、当時の宗教界を取り巻く風潮が影響してるんじゃないかと考えます。
当時は〝神仏習合〟の流れになっていて、現に、出雲大社の境内にも五重塔や釈迦堂などの仏教伽藍が林立していた時代がありました。いわゆる〝神様の総本山〟の中に仏様も祀られていた訳です。そう考えると、巫女である阿国が念仏を諳んじたとしても、何ら不思議ではありません。
あるいは。
興行として成功させる上で、世間で流行していた念仏を演目のモチーフに取り入れる事で、常に話題づくりをする必要があったんじゃないか、とも考えます。
正直、古より(それこそ天岩戸伝説の頃より)〝奉納舞〟と称して神様の前で歌や踊りが披露される事はあっても、念仏と舞踊とは、あまり結びつかないように思えるんですが。

慶長8(1603)年、阿国は京都・北野天満宮で勧進興行を行ないます。その時に踊った舞は、今までのややこ踊りではなく、男装して茶屋遊びに通う伊達男を演じる〝かぶき(傾き)踊り〟というものでした。この踊りが京都で大変な人気を集め、やがてこれを真似た芝居が吉原の遊女によって盛んに演じられるようになり、遊女歌舞伎へと発展して行きました。
これが、「出雲阿国が歌舞伎の創始者である」と云われるようになった由縁です。
ところで。
わずか数年の間に、〝ややこ踊り〟から〝かぶき踊り〟というまったく毛色の違った物に変わってしまったのには、いったい何があったのでしょうか。
時代の流行を取り入れたという考えもありますが、一説では別人――2代目「出雲阿国」が現われたんじゃないか、という説もあります。
慶長12(1607)年を最後に、阿国は歴史の舞台からぱったりと消息を絶ちます。
伝説では故郷の出雲へ帰ったとされています。ですが、厳格な中村家では芸能の道に走った阿国を迎え入れる事を許さず、仏門に入った阿国は、実家近くの安養寺から程近い場所に『連歌庵』という草庵を結び、そこで日々観音像を拝みながら生涯を終えたとされています。

とまぁ、その生涯すべてが謎に包まれている出雲阿国。今に伝えられる〝伝説〟を読み解く程に、謎がどんどん深まって行くのは何故でしょうか。
例えば。
阿国は京都(もしくは奈良)の出身で「出雲」はいわゆる芸名ではなかったか、という説もあるくらい出生地が不詳。本当に出雲の生まれなのか?
天正年間に奈良や京都に現われて〝ややこ踊り〟を踊った阿国と、慶長年間に現れて〝かぶき踊り〟を踊った阿国は、本当に同一人物なのか?
幼い頃から出雲大社の巫女となり、大社修復の勧進が目的で諸国を回った阿国が、故郷の出雲に帰って仏門に入ったのは何故か?
エトセトラ、エトセトラ。
生没年から出身地、その経歴に至るまで、何もかもが不詳なままの出雲阿国。ですが、桃山時代に現われ、〝念仏踊り〟や〝かぶき踊り〟で人気を博し、歌舞伎の礎となった事だけは確かなようです。


画像奉納山の中腹に『於国塔』という顕彰塔が建っています。
歌舞伎『出雲阿国』上演を記念して、中村家・市川家という歌舞伎界の名門に名を連ねる名優たちが発起人となって、昭和11(1936)年に建てられたものです。
碑銘は時の首相・近衛文麿が揮毫。
塔の裏側には、男装姿で優雅に「かぶき踊り」を舞う阿国の銅板レリーフが嵌められています。
そして、塔を取り囲むように並ぶ石柱には、市川雷蔵や阪東妻三郎、水谷八重子などの名俳優、舞踏家、三弦の家元など、芸事に疎いワタクシでも「この人は知ってる!」「この名前は聞いた事がある!」と声を上げたくなるような超一流の芸能人の名前が刻まれています。
実を申しますと、この塔は2代目。太平洋戦争中、軍需物資不足を補う為に阿国の銅板レリーフは徴用され、レリーフがなくなった事で塔自体も廃れていってしまったのです。それを憂いた歌舞伎界有志により、昭和43(1968)年に再建されたのです。



奉納山から程近い場所にある市民墓地には、阿国の墓があります。
ここまでの経緯から、さぞかし立派な墓石があるものと思いながら、石灯篭が控える階段を上って行くと、何の変哲もない大きな石があります。

「遺跡……?」

そう呟きたくなるような、『出雲お国墓』という墓標がなければ、うっかり通り過ぎてしまうような墓石です。
それでも、数多くの歌舞伎俳優や芸能関係者が参拝に訪れているとか。それは今も変わらず。
阿国の墓のすぐ隣には、生家である中村家の墓が建っています。墓碑には「門鍛冶屋」の文字があります。
阿国の生い立ちを知らない人が見たら、
「これも歌舞伎役者の家のお墓なんだ」
「〝成駒屋〟や〝成田屋〟のように〝門鍛冶屋〟というのがあったんだ」
なぁんて思っちゃうかもしれませんね。
ハイ、白状します。
ワタクシも、他に歌舞伎役者の家のお墓がないものかと探してしまいました――まぁ、そんなものがある訳がなく、ごく普通の市民霊園なんですけどね。
それに考えてみたら、法要の度に出雲まで来てたんじゃ、いろいろと大変でしょうに。梨園の方々もマスコミも。
画像画像














ともあれ、史実虚実ないまぜに、一部というか大部分というかは有吉佐和子が書いた小説『出雲の阿国』に感化影響されながらも、ここ出雲の地には明らかに〝出雲阿国〟という女性が生きていた証があり、おそらくこれからも生き続けて行くのでしょう。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック