日本最古の城・越前丸岡城

画像福井駅前から本丸岡行きのバスに乗って約30分、越前丸岡城址にやってきました。
バスは「丸岡城」または「城入口」停留所で降りるとすぐ目の前なのですが、便によっては「本丸岡」(バス営業所)までしか行かない場合もあります。それでも、歩いても程なくすると国神神社に突き当たり、その角を左に折れると、天守閣が唐突に現れます。

丸岡城は別名を「霞ヶ城」とも云い、天正4(1576)年に建造されたとされる二層三階の望楼型天守閣は、日本に現存する12の天守閣の中では最古のものといわれています。
もっともこれには、愛知の犬山城とどちらが古いか争っている経緯があります。
天正3(1575)年、織田信長から北陸の一向一揆平定を命じられた柴田勝家は、一揆軍の拠点となっていた豊原寺を大軍を率いて攻め滅ぼします。一揆討伐の恩賞として、信長から越前一国を与えらた勝家は、北ノ庄(福井市)に城を構え、豊原一帯には甥の勝豊を派遣します。一旦は豊原に居館を構えた勝豊ですが、交通の利便性などから丸岡に移り、そこに城を築きます。
これが現在の丸岡城です。
天正10(1582)年、本能寺の変以後の清州会議で近江国長浜に移封された勝豊に代わり、勝家の家臣・安井家清が城代として入城しますが、翌年に起こった賤ヶ岳の戦いで、勝家が羽柴秀吉に敗れると、越前国は丹羽長秀の所領となり、丸岡城には青山宗勝が入城します。
宗勝の子・忠元が城主を継ぎますが、関ヶ原の戦いで西軍に組した為に所領没収。慶長6(1601)年、徳川家康の次男・結城秀康が越前国の領主になると、その家臣・今村盛次が2万5千石で城主の座に就きますが、慶長17(1612)年に起こった重臣同士の騒乱(越前騒動)の責任を取って失脚。代わって本多成重が4万3千石で城主となり、以後4代にわたって本多家が治めます。
その本多丸岡藩も、4代重益の代・元禄8(1695)年に起こった御家騒動(丸岡騒動)で取り潰し。代わって、越後糸魚川から有馬清純が5万石で入封。以後、明治を迎えるまで8代160年にわたって治める事になりました。
このように城主が目まぐるしく代わった丸岡城ですが、明治4(1871)年の廃城により天守を残して取り壊され、濠も埋め立てられてしまいました。その天守閣も昭和23(1948)年に起こった福井地震で倒壊してしまいますが、8年後の昭和30(1955)年、その倒壊材を使って元通りに修復・再建されています。
そういった経緯があるので、まったくの無傷という訳ではないものの、天正年間の築城当時の姿を今に留めているのです。

日本最古なだけあって、屋根瓦はすべて石瓦、壁のほとんどは柾目板張りです。同じ板張りでも岡山城や松本城のような黒塗りではなく、板目そのままってトコに歴史を感じます。
画像天守閣の内部は、最上階まで貫く柱が一本もありません。一層全体で2階、3階にあたる二層部分を支えているんです。こういった造りも、関ヶ原以前に建てられた城の構造的な特徴です。
上階に上る階段は、びっくりするほど急です。上るってより、よじ登ると表現した方がいいくらい。補助のロープがなかったら、ちょっと危なっかしくて上れません。おそらく、今まで見てきたお城の中でも、一番急なんじゃないかと思える程です。
さらに驚くのは、2階から3階に上がる階段。壁スレスレまで迫ってます。上がる時は人一人入れるか入れないかの隙間に「よっこいしょ」と体を滑り込ませてからじゃないと上がれません。
デブは昇れません(笑) デブでヒゲはもっと昇れません(爆)
こりゃあ攻め入ったはいいけど、容易には攻め落とせませんね。
内部はがらんどう。日本各地に現存する天守閣のパネル写真以外、何の展示物もありません。いつものワタクシめなら「何だよ、何もねぇのかよ」と文句タラタラのところですが、こと丸岡城に関して言えば、逆に「よくぞ余計な展示を無くしてくれた」と、清々しさまで感じます。もう、この天守閣自体が立派な展示物ですよ。
戦国時代の名残として、各階に銃眼や石落とし、物見窓などがあり、まさに〝戦う城〟だった事が如実に伺えます。


徳川家康の家臣に〝鬼作左〟の勇名を轟かせた本多作左衛門重次という人がいました。この重次が、陣中から妻に宛てて送った有名な手紙があります。
さて、ここで質問です。
「一筆啓上」で始まるこの手紙とは?

「え~とぉ……一筆啓上 火の用心 お煎にキャラメル あんぱんにコーラ……?」

「違うわ、アホぉ!!」

正解は「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」です。

画像文中の〝お仙〟って、ワタクシ、まだ年端も行かぬ女の子だと思ってたんですが、実はまったく違いました。
この〝お仙〟というのは重次の息子・仙千代の事で(この時点で間違いですよね。女の子じゃなくて男の子ですもの)、後に丸岡城6代目城主となった本多成重の事です。
はぁ~……オドロイタっす。あの文面は知ってましたが、こんなところでつながってたんですねぇ~……
という事で、天守台石垣の脇には、この書簡の石碑が建てられています。

まぁ、そういった事に因んで。
ここ丸岡町では「日本一短い手紙」コンクールなんてのをやってます。何年か前、話題になってましたね。本にもなってますし。
して、その作品が城址公園入口の休憩所に何点か展示されてました。
その中でワタクシめの目に留まったのは、

あぁ~ 揚げたての天麩羅が食いてぇ~

「どんだけ食いしん坊なのよ」と思った方、この手紙が戦時中、南方で戦死した兄弟から送られてきた最後の手紙だとしたらどうですか? スゴい身に詰まされると思いません?
遥か遠い南方の島、水や食糧も満足にない中で、祖国の為に命がけで戦い、望郷の念を抱きながらも敵弾に斃れて死んでゆく――最期の望みが〝揚げたての天麩羅〟てのが、いかにも日本人らしい選択じゃないですか。
切実な願いだったんでしょうねぇ。図らずもウルっときてしまいました。


さ。
福井の旅もこれで締めくくりです。「もう十分」とは言いませんが、1泊2日という限られた時間の中では、この辺が精一杯じゃないでしょうか。
またまた「青春18きっぷ」をフルに使っての大移動です。 

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