土佐の高知のはりまや橋で

坊さんは、かんざしを買うどころか、影も形も見かけませんで(笑)
「日本三大がっかり名所」の一つ、はりまや橋です。
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はりまや橋というと、どうしても赤い欄干のを想像するんですが、今架かっているのは、昭和25(1950)年に架けられた御影石製の橋。平成9(1997)年の親水公園整備の時に、復元・架け替えされたものです。それまでは川もなく、車道と歩道の間に朱塗りの〝橋モドキ〟が、まるでガードレールのようにあるだけでした。
そりゃあガッカリもするよね。

そもそも「はりまや橋」というのは、江戸初期の頃、堀川を挟んで店を構えていた豪商・播磨屋と富商・櫃屋が(豪商と富商の差がわからんのですけど)、互いの行き来の為に架けた私設の木橋が最初でした。
やがて人々の往来も多くなった事で公道となり、橋も「播磨屋橋」と呼ばれるようになりました。また、この橋一帯も城下一の商店街として発展して行きました。
もし播磨屋より櫃屋の方が繁盛していたら、橋の名前も「はりまや橋」じゃなくて「ひつや橋」になっていたかもしれませんね。もっとも、播磨屋も櫃屋も現存してませんから、何を商いにしていたのか、どれだけ稼いでいたのか、今となっては知る由もありませんがね。
「坊さんかんざし」で知られる、竹林寺南坊の住職だった純信と鋳掛屋の娘お馬との悲恋物語は、安政2(1855)年の話。この話が浄瑠璃などで取り上げられ、『よさこい節』で歌われ、人々に知られるようになった事で、はりまや橋の名前も全国に知られるようになりました。
まぁ、それに一段と拍車がかかったのは、ペギー葉山が歌った『南国土佐を後にして』が大ヒットしてからでしょう。
(余談ながら。
実際にかんざしを買ったのは、純信の下にいた慶全という修行僧。
実は純信より先にお馬と知り合っており、はりまや橋袂の小間物屋で、お馬の気をひこうとかんざしを買った事が巷で噂になり、それが元で慶全は破門・追放。慶全、腹いせに「かんざしを買ったのは純信だ」と言いふらした事から、いつの間にか噂の中身がすり替わって今に伝えられてるんだとか。
でもまぁ、駆け落ちしたのは紛れもなく純信ですしね)


誰もが知る「赤い欄干のはりまや橋」が登場するのは、随分と最近の話。昭和33(1958)年に催された南国高知総合大博覧会の時です。
高度成長期を迎え、堀川が工場廃水による汚染などが問題で埋め立てられ、はりまや橋は「川のない橋」になってしまいます。そこへもって、「歌にも歌われるくらいなんだから、さぞや立派な橋なんだろう」という淡い期待を抱いて、全国からやってきた観光客が、ただの〝赤いガードレール〟を見て「え~っ? 何コレ~!?」と嘆いて、見事何コレ珍百景ガッカリ名所の完成、と。
この「日本三大ガッカリ名所」の汚名を晴らすべく、平成9年に親水公園として整備され、「川に架かる橋」として復活しました――いやまぁ、川っちゅうか水路なんですけど。
で、この時を期に、朱塗りの欄干に別れを告げ、昭和25年3月に架けられた御影石造りの石橋が復元された訳です。まぁ、欄干の透かしにはかんざしが象られ、赤く塗られてはいますが。
橋柱に取り付けられた銘板には「昭和二十五年三月改築」とだけ書かれ、平成の大改修の痕跡はどこにもありません。あくまで「昔からこの姿でした」と言わんばかりに。
そこまでして「ガッカリ」の痕跡を消したいか(笑)

画像橋の西側すぐ隣には、朱塗りの太鼓橋が架けられています。江戸期に架けられていた橋という事らしいですけど、実際にこのような橋が架けられていたとは、どの文献にもありません。前述のとおり、朱塗りにされたのは戦後の話ですしね。
この橋、全国から「はりまや橋って、こんなイメージ」というのでアンケートを取って、それを形にした物なんです。
皆さんが描くはりまや橋のイメージって、やっぱりこういう朱塗りの木橋なんですね。だからでしょうか、記念撮影される観光客、揃ってこの橋で写されます。
御丁寧に純信・お馬の顔出し看板から顔を出して。
人はナゼ顔出し看板から顔を出すのか――それは永遠のナゾなのです(笑)
こうなってくると、「消えた(消された?)〝赤いガードレール〟はどこへ行ったのか?」が気になってきます。
親水公園の東西は地下道で結ばれており、その地下道の奥に一部が〝黒歴史〟として(笑)保存されています。
ただ……この地下道がまた問題でして。
中にベンチが数基置かれているんですが、これがホームレスの方々の寝ぐらになってまして。地下道を通ると、その方々が「何か用か?」とばかりにギッと睨むんです。これじゃあ女性の方なんか、おいそれとは通れませんよね。
なもんで、道の向こう側に渡るには近くの横断歩道を利用して、この地下道は日中でも閑散と(というか、ほぼ無人化)しております。
橋が架け替わっても、やっぱりガッカリ名所に変わりはないんですね(爆)

画像道の反対側、親水公園東側には、明治期に架けられていた鋳鉄製の橋があります。
「より丈夫で、新時代にふさわしい西洋的な橋を」という事で、明治41(1908)年10月、かんざしを模した欄干を持つ頑丈な鋳鉄製の橋に架け替えられます――て、遅ッ! もう明治も末期じゃん。
大正13(1924)年に高知駅が開業し、昭和3(1928)年に土佐電鉄の路面電車が駅前に乗り入れた事で、より幅広く強固な橋が求められ、この鋳鉄製の橋も翌4年には架け替えられてしまいます――て、早ッ! ほんの20年足らずじゃん。
まぁ、文明開化には出遅れたものの、大正モダンには似合いの橋だったかと。
この橋柱、実は架橋当時のもので、とある人が大事に保管していたんだとか。やがて市内にある旅館『三翠園』の庭に移設されましたが、公園整備の折に寄贈を受け、このとおり昔の姿を復元する事が出来たそうです。どこにでも奇特な方はいるもんですねぇ。

はりまや橋東側に建つ、土佐電鉄ターミナルビルの壁にはカラクリ時計があり、毎正時には高知らしいカラクリが。
高知城は出てくるわ、桂浜の龍馬は出てくるわ、はりまや橋の純信・お馬は出てくるわ。時計の下では踊り連がよさこい踊りを踊ってますよ。
見てて飽きない、もう一つのはりまや橋名物です。
飽きないったって、10分くらい動いてんですけどね。
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あれ?
そういやぁ「日本三大がっかり名所」って、札幌時計台と、高知のはりまや橋と……あと一つは何でしたっけ?
名前すら思い出されないって、どんだけガッカリなんだよ(笑)

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