須崎市内散策

四国内で、陸上交通が最も立ち遅れていた高知県。
鉄路が敷かれたのは、大正13(1924)年に須崎-日下間が開業したのが最初。
やがて高知へ、高知から高松へと延伸して行き、香川・徳島・高知の3県を貫く土讃線(多度津-須崎間)が全線開通したのは、昭和10(1935)年の事。鉄路はさらに西へと延び、須崎-中村間が開通したのは昭和45(1970)年。
さらに中村-宿毛間が開通したのは、JR四国から土佐くろしお鉄道に移管された後の平成9(1997)年――ずいぶんと最近の事なんだぁ。
そういった訳で、ここ須崎という所は、高知県の鉄道発祥の地なんだそうです。
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なんて話を、駅舎の壁に嵌め込まれた記念プレートを見て、初めて知りました。
(ちなみにこの「高知線の歌」、節はやっぱり「鉄道唱歌」なんだろうな)
さて、と。
そいじゃあ、しばし須崎市内を散策しましょうかね。


画像NTT須崎支社の裏手に、発生寺(ほっしょうじ)という小さなお寺があります。
境内の奥には、『龍馬の首切地蔵』というお地蔵さんがあります。風化はかなり進んでますが、確かに頭半分がバッコリ割れちゃってます。
幕末の頃、ここの住職は勤王志士の支援者だったそうで、坂本龍馬も何回か訪れていたとか。
ある時、仲間と酒を酌み交わしながら議論を戦わせていた龍馬、酔った勢いもあってか、お地蔵さんの頭を木刀で叩き壊してしまったんだそうです。
龍馬、短気というか、結構ヤンチャだったのね。
で、酔いも醒めた頃、自分の仕出かした事に気付いた龍馬。「しもうたぜよ」とばかりに、裏手に聳える城山から取ってきた松の木を植えて、このお地蔵さんの供養をしたと伝えられています。
松の木、枯れる度に有志によって植え替えられ、現在は4代目になるそうです。

海岸に程近い場所に、西浜公園という一風変わった公園があります。
何がある訳でもない、ただ大小の石が石垣のように積み上げられているだけなのですが、石積みの上には、さらに台状に盛り上げられた土塁が幾つも並んでいます。土塁そのものは草木に覆われ、一見しただけでは何なのかよくわからないのですが、全体を見渡せば、それらは海に向かって扇形に広がっているのです。そして、その土塁上へと連なる緩やかなスロープと階段。
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この不思議な公園、実は幕末期に異国船の来航に備えて設置された、土佐藩の砲台址なんだそうです。
ペリーの浦賀来航を契機に、諸外国の商船・軍艦が日本近海に出没するようになり、その領土が海に面した諸藩に異様な緊張をもたらします。ここ土佐藩も例外ではなく、文久3(1863)年、藩命により須崎にも砲台場が築かれます。海岸防備が目的でした。
須崎には西・中・東の3つの台場が築かれましたが、現存するのは、この西台場だけです。最大長116m、7基の大砲が設置され、往来する異国船に睨みをきかせてました。石垣内には7つの弾薬室が設けられていたそうです。
この台場、薩摩(薩英戦争)や長州(下関事件)のように実際に外国と一戦交えるような事はなかったそうですが、幕末動乱期を物語る貴重な史料と云えるでしょう。

さて。
須崎市内を歩いていると、このような看板をよく見かけました。
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海抜高度表示板と津波予想表示板です。
さすが海岸沿いの街、津波に対する注意喚起は常に行なわれているのですね。特に、近い将来必ず起きると云われている東南海大地震に対しては、かなり神経質になっていました。
津波予想表示板は、昭和21(1946)年に起きた南海地震の時「ここを○○mの津波が襲いました」という標識、避難場所を示した標識、そして来るべき東南海大地震の時に予想される津波の最大潮位という3枚セットの標識です。
先の南海地震の時には、マグニチュード8.0の地震が、その直後に津波が襲い、この須崎の町でも大被害が出たそうです。そして、東南海大地震では、四国の太平洋岸を襲う津波の潮位は、最大で10mはあるだろうと予想されているとか。
高さ10mの波って、どんなのよ? 2階建ての家も軽々と飲み込むような波じゃ、もう何したって、どこへ逃げたってダメって事ぢゃん!
これが注意喚起なのか、ただ闇雲に不安を煽ってるのかは定かじゃありませんが、生半可な高台に逃げたってムダだって事だけはわかりました。
だって、4.8mもの波が来るんだモン。2階に逃げたって、ズッポリ呑み込まれるんだわ。
ん~……とりあえず高さを稼ぐ為に、竹馬でも買いましょうかね?(笑)
ムダムダムダムダムダァ―――ッ!!

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