忍びの里と俳聖と

画像いやぁ~……やっぱり来ちゃいました、忍者屋敷。
だって、同じ敷地内なんですもの。
伊賀流忍者のすべてを紹介する「伊賀流忍者博物館」は、伊賀上野城二の丸――上野公園の中にあります。
「忍者博物館」は、実際に忍者が暮らしていた「忍者屋敷」、忍者が使う武具・道具を実際に体験できる「忍術体験館」、忍者の暮らしや隠密行動についての資料を展示した「忍者伝承館」の3つのゾーンからなります。

茅葺き屋根の「忍者屋敷」は江戸時代後期の建物で、もっと山里の方にあったものを移築・復元したもの。
一見どこにでもある農家風の屋敷ですが、いかにも忍者屋敷らしい仕掛けが、屋敷のあちこちに仕掛けられています。
例えば――
画像一見普通の板壁が、クルッと廻ったかと思うと、そこに身を隠すスペースが。皆さまおなじみ「どんでん返し」でございます。
音もなくクルックル廻る仕掛けですから、バレないようにピタッと止めるのは至難の業。
「どんでん返し」には、このように軸が中心にあってクルクル廻るタイプもあれば、軸をわざと中心からずらし、一定方向からしか開かないタイプもあります。これらもただ身を隠すだけじゃなく、その先に抜け穴を配置するなど、二重三重の仕掛けが施してあります。



画像これまた、ただの板壁に見えていたものが、実は隠し扉になっているというもの。
しかも仕掛けが巧妙で、普通に押したり引いたりしたんでは開かないけれど、上下にある鍵をスッと外すと、スパンと抜けられるようになっています。
攻め込まれた時、人知れず外へ逃げ出せるようになってるんですね。







画像同じ逃げ出すんでも、こちらは抜け穴の入口。一見ただの漆喰壁と思っていたんですが、アラ不思議、地下へ通じる秘密の階段が。
仏壇の裏ってのがオシャレ(笑)










画像ただの板敷き床かと思えば、実は刀隠し。
この中に、刀や手裏剣などを隠しておいて、イザという時には取り出して応戦するという、「逃げたり隠れたりだけじゃねぇぞ」という訳です。
また、時には刀の替わりに、見つけられては困る密書などを隠しておいたりもしていたそうです。









他にも、どう見ても棚にしか見えない「隠し階段」があったり、ただの飾り窓にしか見えない格子の向こうや、ちょっとした壁の隙間の裏に見張りが潜んでいたり。
さすが忍者屋敷だけあって、「エーッ、こんなトコも!?」「ウソーッ、あんなトコも!?」な仕掛けが至る所に施してあります。
それらの一つ一つを、忍者に扮した係員が解説してくれる訳です。
その身のこなしの素晴しい事! 「タダ者じゃねぇな?」と思っていたら、案の定、忍者ショーを見せてくれる劇団員の方でした。

「忍者屋敷」を一とおり見たら、地下へ続く階段を下りて「忍術体験館」へ参ります。上はというと、忍者ショーのステージになってるんですね。
「忍術体験館」には、忍者が使った刀や手裏剣などの武具や〝忍具〟と呼ばれる忍者独特の道具が数々展示されています。また、モニターには忍者がどのようにして任務を果たしていたかを解説するビデオが流れていました。
で。何が〝体験〟なのかというと。
〝水蜘蛛〟という水面を渡る道具を、実際に履いてみる事が出来ます。といっても、ただ履くだけ。本当に水面を渡る事は出来ません。
〝聞き筒〟と呼ばれる道具で、壁の向こう側の声を聞くことが出来ます。コップを壁に当てて盗み聞きする、アレですな。
天井から吊り下げられた縄梯子を登る事が出来ます。
――なんだ、それだけかい(笑)
まぁ、唯一〝らしい〟と云えるのは、手裏剣打ちくらいでしょうか。お一人様5枚で200円。
展示品を見ていて、いくつかの疑問が解けました。
例えば〝水蜘蛛〟。
時代劇なんかを見てると、あの丸い〝かんじき〟みたいな板を履いて、水面をスイスイ渡るようなシーンが出てきますが……あんなモンでアメンボみたいにスイスイ渡れる訳ないじゃないですか。物理法則を無視しちゃいけません。それに、泳いだり潜ったりした方が、もっと速く渡れますよ。いくら物音がしないからって、あんな目立つ格好を、わざわざしなくてもいいじゃないですか。
じゃあ、あれは作り話なのかというと、さにあらず。
あれは水面を渡る物じゃなくて、泥沼などを渡る時に使う物なんだそうです。そう聞けば納得です。点にかけるより面にかける方が、重力が分散されますからね。物理法則に適ってます。
水のある場所を渡る時は、もっと大きなものを使います。柿なめしで防水と空気漏れをしないように加工した布で袋を作り、それを板でサンドイッチにする、まぁ原理としては浮き輪みたいなもんですね。これも〝水蜘蛛〟と呼ばれていたので、どこかでごっちゃになり、いつしか「忍者は〝水蜘蛛〟という道具を使って、水面をミズスマシのように渡る」なんて話が出来上がっちゃって――んな訳ないじゃないですか、ねぇ?
画像画像














それから、手裏剣。
手裏剣といえば、両手の手のひらを摺り合わせるようにして、何枚もシュピシュピ飛ばすイメージがありますし、時代劇なんかにもそういうシーンが出てきますが……アレもデタラメですよ。
考えても御覧なさい。鉄拵えのシロモノをそんな大量に持ち歩ける訳ないでしょう。ましてやそれを、手のひらだけで飛ばすなんて、どんな屈強な男がやったって、数十センチ飛ばすのがやっとですよ。忍者はモビルスーツじゃないんですから(笑)
実際は、ほんの2、3枚しか持ち歩いていなくて、しかも投げる時はナイフ投げのようにして投げてたそうですよ。ただ、刃先にトリカブトなどの毒を塗ってあったので、掠めただけでも効果はあったんだとか。
そんな手裏剣の数々も、実際の投げ方と一緒に紹介されてました。
おなじみ十字型のものもあれば、三角形・四角形のものや、箸のように長い棒状のものもあったりで、形は様々。投げ方も上から投げたり、下から投げたり、逆手で袈裟に投げたり。

階段を上り、再び地上へ出ると「忍者伝承館」があります。ここでは、忍者の普段の暮らしぶりや修行の内容などを、数々の道具や文献などを通して解説しています。
実際に忍者が通信手段として用いた五色米(米に五色の色を付け、その数や置き方で物事を伝える)や、伊賀上忍御三家(服部・百地・藤林)の一つ、藤林左武次保武が記した忍術兵法書(忍者の教科書とも云える書物)『萬川集海』などが展示されています。
忍者ってのは、決して超人的な存在でもないし、忍術も決して物理法則を捻じ曲げるような魔法でもなく、どちらかというとサバイバル術や感覚を研ぎ澄ます方法だったという事で、これらは現代社会に生きる私たちも参考に出来るものだという事です。
間違っても、某Vシネマのように「おっぱいから火炎放射」なんて芸当は、しないし出来ないものだそうで(笑)
つーか、なんでVシネの中身なんて知ってんの?(爆)

忍者の先祖は、時代をグッと遡り、飛鳥時代に活躍した役小角(えんのおずの)。役行者(えんのぎょうじゃ)とも云われ、修験道の祖です。呪術を使い、鬼神を使役したと伝え聞きますが、この鬼神というのが、いわゆる忍者軍団だったんじゃないかと云う話です。
(その辺の話をモチーフにした小説が、藤川桂介の『宇宙皇子』ですね)
先祖が役行者という事は、忍者と山伏も同じ流れだという事になります。
さて、伊賀忍者といえば対極にあるのが甲賀忍者。
さぞや激しく争ったんだろうと思いきや、実は流れは一つ。いわば親戚同士だったらしいです。事実、互いに交流はあったようですし、前述の上忍御三家の藤林氏は、伊賀と甲賀の両方を支配していたそうです。
伊賀流は火薬技術に長じ、甲賀流は毒などの薬物を熟知していたとか。だから、時代劇に出てくる煙玉ボ~ン!てのは伊賀忍者。密かに城に忍び込み、寝ている殿様の口に毒をタラ~リと垂らして暗殺するのは甲賀忍者という訳です。
伊賀と甲賀、双方に決定的な悲劇が訪れたのは、天正7(1579)年に起きた〝天正伊賀の乱〟です。
全国統一を目論んでいた織田信長は、伊賀の里にも「我に従え」との命を出しますが、伊賀側は「伊賀衆は誰にも従わない」とこれを突っぱねます。その中で、信長の次男で伊勢国の領主になっていた信雄が、功を焦り、信長に無断で1万の兵を率い伊賀に攻め入ります。ところが、この情報は伊賀側に筒抜けで、奇襲戦を仕掛けて信雄軍を打ち負かします。これがいわゆる第一次伊賀の乱。
この事態に怒り心頭の信長、信雄を厳しく叱責する一方、2年後の天正9(1581)年、自ら4万の兵を率いて伊賀に攻め込みます。伊賀衆も総力を上げて応戦しますが、如何せん多勢に無勢。伊賀の人々が立て籠もった砦は次々に陥落、人口の約半数を失い、伊賀は壊滅します。これが第二次伊賀の乱です。
で、この第二次伊賀の乱の時、信長の軍勢に入り、道案内したのが、伊賀とは協力関係にあった甲賀忍者でした。伊賀から逃げ延び、全国に散った伊賀忍者の追討に当たったのも甲賀忍者です。その数は日に500ともいわれ、合計すると数千人もの伊賀の人が処刑された事になります。
やがて本能寺の変で信長が亡くなると、伊賀忍者は一斉蜂起。反転攻勢に打って出ます。特に、本能寺の変直後、堺から三河へ逃げ戻った徳川家康の護衛に当たったのが服部正成(服部半蔵)であった事から、伊賀忍者は徳川方に重用されるようになり、関ヶ原以降は、信長の死後は豊臣秀吉に仕えていた甲賀忍者を、逆に追討する形になります。
こういった経緯から、伊賀と甲賀はいがみ合う事になる訳ですが……それもこれも、甲賀側にしてみれば致し方ない事だったのです。甲賀が生き残る為には、信長に協力するしかなかったのです。逆らえば死。壊滅した伊賀衆と同じ運命を辿っていたかもしれないんですから。
一方の伊賀は、協力関係・親戚筋にあった甲賀に裏切られ、腹の虫がおさまらない。その辺がややこしく絡み合い、面白おかしく書き綴られたのが〝伊賀忍軍vs甲賀忍軍〟という訳です。
結局のところ、徳川対豊臣の代理戦争に引っ張り出されたんですがね。
余談ながら――
時代劇などで描かれる服部半蔵と百地三太夫の戦いですが、これもまったくの作り話。家康に仕える為、江戸へ出て行った服部家に代わって、伊賀忍者を束ねたのが百地家。何か事ある時は協力関係にあったらしいのです。いわば服部家は大江戸支社勤務、百地家は伊賀本社勤務――てな感じでしょうか。まぁ、同じ伊賀同士、いがみ合う必要はまったくなかった訳です。
その半蔵。実は忍者ではなく侍だったという話です。ただ、配下に幾人もの忍者を持っていましたから、それでいつしか〝服部忍軍の総領〟という偶像が作られてしまったという訳です。
また、百地三太夫なる人物も、実際にはいなかったという話もあります。別の説では〝伊賀流忍者の祖〟と呼ばれる百地丹波の事、あるいはその孫だったんじゃないかと云われてますが、どちらにせよ天正伊賀の乱で亡くなってますので、江戸時代に〝服部半蔵vs百地三太夫〟なんて事は起こらなかった、と。
それ以前は?
結束の固い伊賀衆にあって、それこそあり得ない話だった、と。
まぁ、すべては後世の講談師などが面白おかしく脚色した作り話だった、と。夢(?)を壊してゴメンなさいね。
さらには、稀代の大盗賊・石川五右衛門は、百地丹波に伊賀流忍術を学んだと云う話もあります。とはいっても、五右衛門が忍者だったという話は残っておらず、それどころか、丹波の妻を寝取った上、妾を殺害して逃亡したという伝承が。
石川五右衛門、金銀財宝だけじゃなく人の女房まで盗んでいた、と。
これまた余談ながら――
伊賀地方を走る伊賀鉄道ですが、戦前には甲賀にある近江鉄道貴生川駅まで路線を伸ばす計画があったそうです。ところが、用地買収が困難だった事や太平洋戦争に突入してしまった事、戦後の農地改革などで計画は頓挫。曰く「やっぱり伊賀と甲賀は結ばれない運命なのか」と。
やれやれでございます。


「忍者博物館」のそばには、俳聖・松尾芭蕉を顕彰する「俳聖殿」が建っています。木造桧皮葺の二層塔建て八角形のお堂で、芭蕉生誕300年を記念して、昭和17(1942)年に建立されたものです。
建てたのは、上野城天守閣を再建した川崎克翁。川崎翁、芭蕉には大そうな思い入れがあるようで、再建なった天守閣に郷土にまつわる数々の品を提供したものの、芭蕉に関する物だけは生涯手放さなかったという逸話が残っています。
「俳聖殿」は芭蕉の旅姿を象ったもので、2階の丸い屋根は旅笠、1階の八角形の廂は蓑と衣を着た姿、廻廊の柱は行脚する芭蕉の脚と杖、「俳聖殿」と墨書した額は顔を表しています。
……そんな風に見えますかしら?
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お堂の中には、等身大の芭蕉座像が安置されています。伊賀焼の芭蕉像は、芭蕉の命日である10月12日に催される芭蕉祭の時のみ公開されています。 とはいっても、常に窓の間から覗き見る事は出来るんですがね。
この芭蕉、実は忍者じゃないかという噂がずっと付いて回っています。
曰く、常人にしては随分と足が早いとか、あれだけ楽しみにしていたはずの松島をあっという間に通り過ぎてるとか。その辺の謎から、『奥の細道』の旅は、実は伊達仙台藩の内情を探る隠密行動が目的だったとか、実しやかに噂されてる訳です。
それもこれも、
「松尾芭蕉は伊賀上野の生まれである」

「伊賀上野といえば、伊賀流忍者の里である」

「きっと芭蕉も忍者の訓練を積んでいたに違いない」

というムボーな想像の産物です。
まぁ、芭蕉が忍者だったかどうかはともかく、稀代の俳人であった事だけは間違いありません。

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