夕陽を追いかけて~拝啓、へるん様

画像松江城の御壕を悠々と巡る「堀川めぐり」の船を眺めながら、城山西堀川沿いの道を北に向かいます。城の北側、堀沿いに続く道なりに「塩見縄手」と呼ばれる武家屋敷群が並びます。「縄手」とは縄のように一筋に伸びた道の事を言い、ここには松江藩中級藩士で、後に異例の出世をした塩見小兵衛の屋敷があった事から、この一帯を「塩見縄手」と呼ぶようになりました。この一角では、松江藩中級藩士が住んでいた武家屋敷も一般公開されています。
塩見縄手の西端、交差点角に建つのが「小泉八雲記念館」です。ここには、小泉八雲の遺品や書簡、直筆原稿などが収蔵され、一般公開されています。

『怪談』などで有名な小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、1850年にギリシャのレフカダ島で、アイルランド人の父とギリシャ人の母との間に生まれました。
日本について記された数々の文献を読んだ八雲は、この〝東洋の小国〟に興味を持ち、明治23(1890)年4月、39歳の時に来日。横浜で記者生活を送りましたが、そのわずか4ヶ月後、文部省の紹介で、島根県尋常中学校(現在の松江北高校)および師範学校(現在の島根大学)の英語教師として松江に赴任してきます。
この時、文部省の役人が八雲の英語名(Lafcadio Hearn)を「ヘルン」とローマ字読みして伝えてしまった為、松江では「へるんさん」と呼ばれていました。この呼び名は、当の本人も気に入っていたようで、時には自分の原稿に〝ラフカディオ・ヘルン〟と書いていたとも伝えられています。
八雲は、この松江の風景や人々の人情をたいそう気に入り、また生涯の伴侶たる小泉セツと出会います。
ところが――これは一般にあまり知られてない事ですが。
〝小泉八雲イコール松江〟というイメージがありますが、松江の冬の寒さと大雪に根負けし、わずか1年3ヶ月で熊本へと移ります。その後、教師の職を辞し、文筆を生業として神戸、東京へと移ります。日本に帰化し「小泉八雲」と名乗るようになったのも、東京に移り住んだ明治29(1896)年の事です。
つまり、松江にはほんの1年足らずしか住んでいなくて、「小泉八雲」とも名乗っていなかった訳です。
寒いからって1年そこそこで退散……八雲センセイ、根性なしです(笑)
でも、考えてみたら、レンガ造りの家で育った人間が、紙と木で出来た日本の家屋で、山陰の厳しい冬に耐えられるハズがないですよね。暖房器具といっても炬燵か火鉢。赤々と燃える暖炉で暮らしてきた人間に、そのギャップは我慢できないものだったんでしょう。
それでも、八雲にとって松江という街は、非常に興味深く、印象も深かったようです。著された随筆や紀行文のほとんどは松江で書かれたものですし、帰化名とした「八雲」という名前も、島根県の旧国名である〝出雲〟の枕詞「八雲立つ」と、好んだ和歌
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
に因んで名付けたと云われています。
明治37(1904)年の秋、狭心症の為、八雲は東京の自宅でこの世を去ります。享年54歳。亡くなるほんの数時間前まで、遠く満州で戦う教え子に手紙を書いていたと云いますから、本当に突然死だったのでしょう。
日本にやってきて14年。日本を愛して止まなかった小泉八雲は、その愛した日本で息を引き取ったのです。

これまた、あまり知られていない話ですが。
八雲16歳の時、学校で遊んでる最中に左目を負傷、失明してしまいます。なので、残された写真は右を向いているか俯いているかのどちらかで、意識的に左を隠していたそうです。また、右目も極度の近眼で、原稿を書く時などは、机に頭をこすり付けるようにして書いていたと、後年、セツさんが思い出話として語っていたそうです。
八雲はキセルの蒐集家としても有名。いろいろな形や紋様を施した金具や吸い口に、いたく興味を抱いていたようで、記念館にもそのコレクションの一部が展示されていました。
さて。
小泉八雲の著書といえば『怪談』が有名ですが、これは勿論、八雲の創作ではありません。普門院住職や妻のセツなどから伝え聞いた話をまとめたもので、いわばグリム童話やイソップ寓話などと同じですね。ただ、ちょっと怪異譚に突出したってだけです。


画像記念館のすぐ隣には、小泉八雲が住んでいた屋敷が、当時のままの姿で残されています。
ここはかつて松江藩士の武家屋敷で、根岸干夫という人の家でした。八雲が「是非庭のある侍の屋敷に住みたい」と切望していたところ、簸川郡(現在の出雲市)の郡長という役職にあった根岸が出雲に赴任していて、たまたま空き家になっていた事から、ここを借りて住むようになりました。
(その裏には、干夫の長男・磐井が、八雲の教え子だったという事情もあったようですが)
屋敷の半分――居間、書斎、セツ夫人の部屋が一般公開されています。
屋敷を囲む庭は、小さいながらも枯山水の観賞式庭園となっていて、八雲は、この家の庭をたいそう気に入っていたそうです。居間にある床の間を背に庭を眺めると、ちょうど南面・西面・北面の三方を望む事ができ、その景色が特にお気に入りだったそうです。
「じゃあ、その景色も一緒に楽しんでもらおう」という訳で、貴重な建築物(国指定史跡)でありながら、家の中に上がる事が出来ます。そうでなければ、他の多くの文化人の旧居のように、家の周囲をぐるっと歩いて、外から眺めるだけになっていたでしょう。
そういえば、紀伊田辺で南方熊楠の旧宅を訪れた時も、外からぐるっと眺めるだけでしたね。

それぞれの部屋は、およそ6畳くらい。そんなにバカっ広いという家ではありません。西洋人には狭過ぎるんじゃないか?と思いがちですが、八雲の身長は160㎝ほどだったと云いますから、ちょうどいい広さだったんじゃないでしょうか。
書斎には、八雲が愛用した書斎机のレプリカ(本物は記念館で展示)が置かれています。ここで庭を眺めながら、随筆『知られぬ日本の面影』を書いたのではないかと伝えられています。結構背の高い机でして、何となくの想像ですが、八雲がここで原稿を書いてる時は、足をブランブランさせながら書いてたんじゃないかと思うくらい、八雲の背丈には似つかわしくない高さの机です。
実際は、目の悪い八雲が、原稿を書きやすいように、わざと脚の高い机にしたと伝えられています。確かに低い机で覆い被さるようにして書くよりは、なんぼか書きやすいでしょうね。
セツ夫人の話として残っている中で、この書斎での八雲は「机に顔をなすり付けるようにして原稿を書き、呼んでも、話しかけても返事をしないくらい没頭していた」と伝えられています。
面白いのは、机の上に一個の大きな法螺貝が置かれていた事。飾りでもなければ、ペーパーウエイト代わりでもない。じゃあ何に使ったのかというと、呼び鈴代わり。何か用事があってセツ夫人を呼ぶ時には、この法螺貝を吹いて呼んだんだとか。
……山伏じゃねぇんだから(笑) つーか、普通に吹けた方がオドロキ。


塩見縄手を離れ、松江松平家の菩提寺である月照寺へ。
元は洞雲寺という禅寺でしたが、家康の孫にあたる初代藩主・松平直政公が生母である月照院の菩提を弔う為、蒙光山月照寺と改称、浄土宗の寺として復興。直政公亡き後、二代綱隆公が境内に廟を造り、山号も歓喜山と改めました。以来、九代にわたる藩主の菩提寺として栄えてきました。近年では〝山陰の紫陽花寺〟としても有名です。
山門前には、江戸時代最強と謳われた不世出の名力士・雷電為右衛門の碑があります。
何故ここに雷電の碑が?
実は「雷電」の四股名は出雲国ゆかりのもので、江戸時代にあっては、松江藩お抱えの力士にのみ許された名前でした。雷電為右衛門も、茶聖としても有名な七代不昧公のお抱え力士だったのです。
画像さて、境内。
見るべきは初代直政公、六代宗衍(むねのぶ)公、七代不昧公の廟所。
直政公の廟所は、境内で一番大きな墓所。
その隣にある不昧公の廟所は、廟門に葡萄の透し彫りがあります。これは〝西の左甚五郎〟といわれた小林如泥によるものです。また、大名茶人らしく、廟所に至る道には茶筅の供養塔があります。
何より見逃せないのは、宗衍公の廟所。但し、注目すべきはその墓碑ではなく、脇にある寿蔵碑(存命中に建てておく墓の事)。大亀の背中に碑石が立っているんですが、この大亀、夜な夜な松江の街を徘徊したという伝説があります。境内には、この大亀が水を飲みに来たとされる蓮池も残されています。
八雲、この逸話に随分と興味を抱いたらしく、随筆『神々の国の首都』の中に「夜歩く大亀」と題して書き記しています。

「夜出会ったら一番ぞっとするだろうと思われるのは、松江の月照寺の化け亀だ。
(中略)この墓化け物が真夜中にのそりのそりと這い出して、近くの蓮池にはいって泳ごうとしたものすごさを想像してみるがよい」

この大亀の像、頭を撫でると長生きできるという噂が伝えられています。
も、頭だろうが首だろうが撫でまくり(笑)

ガメラ~ ガメラ~ 強いぞガ・メ・ラ~♪

……絶対違うよね(爆)

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