玉藻城天守閣復元への道~その3~

画像穴蔵の発掘調査が進んでおりました玉藻城天守台ですが、先月16日に作業が終了。今回の発掘調査で、58個に及ぶ礎石をはじめとする新たな発見があり、今まで謎とされてきた天守閣の構造――とりわけ、穴蔵の全容を明らかにする為の大きなてがかりとなりました。

穴蔵の底部から約50個あまりの礎石が出土した事は、『復元への道~その2~』でレポートしましたが、今回、穴蔵の中心にデンと構えていた玉藻廟の基礎を解体してみると、穴蔵の中央で交わるように、十字に等間隔に配置された礎石が出てきました。
内側の石垣に沿って出土した先の47個と合わせると、全58個の礎石は田の字状に配列され、その上に柱材が組まれていた事がわかりました。
また、天守閣の部材と思われる木片が多数出土。19世紀のものだという事はわかったものの、原型を留めていない為、天守閣復元の直接的な手がかりにはならないそうです。とはいえ、材木の種別は判別できるとの事。
併せて、礎石に残された傷や擦り跡などの痕跡から、柱材の太さはほぼ40㎝角であったろうと推定され、その内側に土壁が張り廻らされていたと考えると、文献『小神野筆帖』の記載(東西6間、南北5間)がほぼ正しい事になります。


画像という訳で今日、1月に続き3回目の一般公開が開催されまして、ワタクシ行ってまいりました。

前回の一般公開では塞がれていた入口も、石がすっかり除かれていました。
穴蔵入口の礎石には、柱を立てるための「ほぞ穴」が彫られ、石垣には柱の周りに付けていた金具の錆び跡が見つかりました。この痕跡から、使われていた柱材は1尺4寸(42.4㎝)×1尺1寸(33.3㎝)の太さだった事が判明。
天守閣を支えていた他の柱も、ほぼこの太さであったろうと推察されます。
さて前回、入口周囲の石垣から見つかった墨書きですが、その後の調査で、
   ・城の入口に、わざわざ墨書きの石を配置するとは考えられない。
   ・築城時に書かれたものなら、経年変化から消えているはず。
などから、明治35年の玉藻廟建設の時、入口を塞ぐ際に書かれたものと推察。要は、石で塞ぐ前に「ここが入口だったんだよ」と書き記したものだろうという事です。

画像穴蔵内は、玉藻廟の基礎がすっかり取り除かれ、約60帖ほどのだだっ広い空間が拡がっていました。
前回は土の中だったので拝めなかった石垣の内側には、かき殻が付着したものもあり、学芸員の方のお話では、「石切り場から切り出した石の他に、近くの海から採取した石を利用したのではないか」との事でした。つまり、石切り場から運んできた石を積み上げ、その隙間を近くから採取してきた自然石で埋めたのではないか、という訳です。
石垣の内側沿いには、新聞報道などであったとおり、30㎝~1.7m大の礎石が、さらに十字に配列するように、規則正しく埋っています。ただ、中央の礎石だけは本来の場所から少しずれた場所にあり、本来埋っていただろう場所には礎石を抜き取った穴が。何らかの理由で(おそらく玉藻廟建設時に邪魔だった為)ずらしたものと推察されます。
南東隅の礎石上面には、約30㎝の直線が刻まれていて、礎石上部に敷く土台を置く目印があった可能性が考えられます。北西隅の礎石にも、土台を設置した事による擦痕や破損跡が認められ、土台の位置推定がある程度可能となりました。今後、このような痕跡や全国の類似した城郭建物等から、天守の構造を解明していく事になると、学芸員の方が説明されてました。
画像穴蔵を埋めていた土からは、徳川(松平)家の象徴・三葉葵の家紋瓦をはじめ、多数の瓦・陶磁器類、鯱の頭などが出土しましたが、それが天守に伴なう物かどうかは断定できないとの事です。
というのは、玉藻廟建造時の基礎固めの為に、城内のあちこちから掻き集めて来たとも考えられるからです。天守閣以外にも、本丸には矩櫓(かねのやぐら)や地久櫓(ちきゅうやぐら)など、解体された建物はたくさんありますから。二の丸を含めると、さらに。
ですから、〝出土イコール天守閣のもの〟とは言い切れないという事です。
木材がほとんど出土しなかったのには、主だった材木は業者に売られたか、県内の寺社仏閣建立に流用されたのが理由ではないかとの話でした。
まぁ、細かな物は埋められたかもしれないが、土に還ってしまったと推察。

とまぁ、ここまでが新聞・テレビなどで公表されてきた情報。
この金曜日(というから、ほんの二、三日前)、新たに発見されたばかりという、ホヤホヤの最新情報。
画像穴蔵四方から、柱を立てたとされる穴4箇所とその材木片が出土しました。
材木片が出土したのは、4つの穴のうち2箇所。残る2箇所の穴の奥には、柱を立てる為の礎石が見つかりました。
とはいえ。
柱を土に直接立てる方法は、当時の一般的な築城方法とは言えず、天守復元には直接結びつかないだろうとの事です。
考えられるのは、生駒氏が築城した三層の天守閣。
ただ、その天守も、ここに建っていたかどうか定かではないし、柱を埋めるような建て方をしていたかも不明。すべては今後の調査結果次第です。
でも、柱材も一緒に出土してる訳ですから、その年代を調べれば、生駒氏の時代の物か松平氏時代の物か判ってくる事でしょう。
あるいは玉藻廟建造時の足場跡か? 
(でも、そこまで念入りに足場を組むのは考えにくい)
玉藻廟といえば、今回の発掘調査で、玉藻廟建立の地鎮祭に使われた穴も発見されました。何故それが地鎮祭に使われたと判断できるかというと、祭事に用いた素焼きの壷が出土したからなんだそうです。



さて、ここまで3回に分けてレポートしてきた『玉藻城復元への道』ですが、発掘調査も一段落した事ですし、しばらくお休みとなります。
この後、天守台は6月から解体工事が始まり、来年度(といいますから、平成21年春までには)石垣の組み直しとなります。
その時、天守閣復元にGOサインが文化庁から出るかどうかは、非常に微妙なラインとなります。
玉藻城の場合、その確率は2割程度という話も。
外観がわかる写真は、今回ケンブリッジ大学から入手したものを合わせ2枚。そのいずれも同じ方向からのもの。つまり、四方からの状況がよくわからない。
そして、コレが一番のウィークポイントなのですが、「内部構造がわかるもの」が何もないのです。
例えば愛媛の大洲城。
あそこは、天守閣建造の構造計算に使ったとされる模型が見つかった事で、復元が許されました。
ところが玉藻城の場合、たった一枚の図面すら残されてないのです。
これでは文化庁が示すガイドラインには遠く及びません。
ただ、今回の発掘調査の結果(礎石がすべて完全な状態で見つかった事)を踏まえ、ある程度の道筋がつかめた事は確かです。険しいですがゼロではないのですから。
もし発掘調査で何も出て来なければ、その時点で復元計画は、白紙どころか立ち消えになっていたでしょうから。
このまま計画が認められなければ?
組み直される天守台は、ただの石垣の山になってしまうでしょう。
それはチョット寂しいんじゃないだろうか。
仮にも駅前すぐの観光名所が、ただの石垣の山だなんて……


くどいようですが。
いつの日か高松駅前に、玉藻城天守閣が聳える日を夢見て。
夢が夢じゃなくなる事を願って。

このシリーズ、一時休載。

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この記事へのコメント

nikko81
2007年03月17日 15:19
nikko81と申します。

今復元される計画がある城郭を探していて、
ここにたどり着きました。

まだまだ取り掛かりは先かと思っていましたが
着々と進んでいるのですね。

最近発見された写真はすごく鮮明ですし、
天守再建に少しは近づけた
というところでしょうか。

これまで約100城近く回りましたが、
コレクションに「高松城天守」を
入れられる日が、わたしも待ち遠しいです。

http://arcadia.cocolog-nifty.com/photos/castle/index.html
讃岐屋
2007年03月17日 19:40
nikko81さん、コメントありがとうございます。

学術員さんの話では、記事内にあったとおり、非常に可能性が低いそうです。
確かに、今回の発掘で穴蔵の構造がわかってきたものの、
   ・写真が一方向からのものしかない
   ・内部構造を明確にする図面が一枚もない
という事で「現段階では、天守台の石垣を組み直すだけで終わるだろう」と。膨大な資料を集めて、過去の類似城郭から割り出すしかないらしいです。あくまでも〝推測の域〟の中で。
〝国指定史跡〟というのが足枷になっているらしく、廃城以前と寸分違わぬものでないと、再建が許されないそうなんですよ。

とはいえ、可能性がゼロじゃないという事で、淡い期待を抱いてたいと思います。

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