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お久しぶりの玉藻城天守閣復元情報であります。 大手ゼネコンの県土木工事への入札排除など様々な事態の影響で、大きく遅れておりました石垣解体工事ですが、この5日から本格的に開始されました。 工事は、元通りに組み直せるようにと、一個の幅が20p以上はあるとされる石すべてを番号化。その数およそ1万個以上。さらに石と石の接着面に印を付け、高さ13m、23段に積まれた石垣の一段一段を丁寧に解体。解体された石は、その材質・形状から産地までを分析します。また、石垣内部の盛り土も並行して調査し、高松市教育委員会では「積み上げ方の推測や修復痕の発見につなげたい」としています。 解体は来年3月末までの予定。積み直しは今後、方策を協議して来年度以降に行われます。今しばらくは、遠くから眺める天守跡が、まっさらの更地状態になってしまい、ちょっと寂しい思いをしますけどね。 さて。 これまでの発掘調査で、天守閣の規模について、その概要がはっきりとしてきました。それによると、天守閣は6尺5寸(約1.97m)を1間として建築したと結論づけられました。 1間は、建物を建築する上での柱のピッチの基本単位で、内部構造を解明する大きな要素。 穴蔵(天守閣の1階部分)底部の礎石や柱穴の位置関係から割り出し、さらに1間を1.97mで計算した場合、穴蔵の実寸が古文書『小神野筆帖(おがのひっちょう)』に記された東西六間(11.82m)、南北五間(9.85m)と一致することが決め手となりました。 これらを踏まえ、3層5階の天守閣の2階以上の広さを類推した結果、2階は東西12間半、南北11間半。3階は東西9間、南北8間。4階は東西6間、南北5間。最上階は東西7間、南北6間であったことも分かってきました。4階より最上階が広いのは、南蛮造という特殊な建て方をされたからです。 市の教育委員会では「明解な構造を示す資料がない中、これらの数字をベースに類似した城を参考にしながら、高松城天守閣の構造をさらに検討したい」という見解を発表しています。 数枚の写真と古文書しか手がかりのない玉藻城天守閣復元ですが、ようやくその姿が見えてきたようですね。 これとは別に、今まで解明されて来なかったもう一つの謎。 玉藻城天守閣は、いつ取り壊されたのか? その謎を解明する文献が、さぬき市志度の多和神社にある多和文庫の蔵書から見つかりました。幕末から明治にかけ、多和神社の宮司だった松岡調(みつぐ)氏が残していた日記に、その模様が記された一文があったのです。 松岡宮司は、1830(文政13)年に高松藩士の家に生まれました。多和神社宮司などを務める傍ら、国学者としても活躍。考古学や郷土史に関する文献、資料を集めた多和文庫を創設しました。 今回、天守閣解体についての記述があったのは、松岡宮司が1864(文久4)年から1902(明治35)年まで日々の出来事をつづった『年々日記』。この『年々日記』は、当時の讃岐を知る貴重な資料として知られています。 1884(明治17)年4月4日の記述には 4日 …高松の御城なる天守臺を此間よりこほちかかれりと聞けるか けに半まてくつしたるを見る 何となうあハれにて思ハすも涙をのこへり… (欄外)高松の天守臺を崩せるハいかなる故そ 【訳文】 4日 …高松のお城の天守閣をこの間から壊しにかかったと聞いていたが、本当に半分まで崩されたのが見える。なんとなく哀れで思わず涙をぬぐってしまった… (欄外)高松の天守閣を崩すのはどうしてだろう とあります。 これによると、明治17年4月頃には、天守閣は既に半分近くが取り壊されていた事がわかります。 天守閣は、版籍奉還後の1870(明治3)年、高松藩庁から政府に取り壊し願いが出された記録はあるのですが、解体時期を示した資料はなく、これまでは明治17年と伝えられていました。 今回見つかった文献で、それが正しかった事が証明された訳です。 市の教育委員会では「城の歴史を裏付ける貴重な発見。天守閣復元の機運向上につながれば」としています。 天守閣復元には直接影響はしないものの、きっと何かの役に立つでしょう、という事らしいです。 ……今回見つかった? 違うよね。『年々日記』の存在は昔から知られてたし、ただそこまで調べてなかっただけだよね。 今回だって、たまたま地元の郷土史家が見つけて、そこで初めて解った事だよね。 ……まぁいいや。「今回見つかった」って事にしておこう。 オトナですから(笑) 今回見つかった文献によると、松岡宮司は解体を目にして「何となうあハれにて思ハすも涙をのこへり」と感慨にふけり、欄外には「天守臺を崩せるハいかなる故そ」と朱書きしていました。 市教委は「解体は取り壊し願いから十数年もたっており、『なぜ今さら』という思いと、新体制への変遷の憂いが入り交じったのでは」と推察しています。 確かにですね、讃岐高松は松平家の領地だった訳ですよ。いわゆる佐幕派。時の明治政府にしてみれば朝敵な訳です。 ハイ、ここでチョット日本史のお勉強です。 日本全土を戦場にしたという意味で、日本最大の内戦である朝廷軍と徳川幕府軍の戦い(俗に「戊辰戦争」と呼ばれます)は、京都郊外の鳥羽と伏見を舞台に、1868(慶応4)年1月3日に戦端が開かれますが、6日夜半に総大将の徳川慶喜が大阪城から江戸へ逃亡してしまった事で、幕府軍はすっかり戦意喪失。戊辰戦争の初戦「鳥羽・伏見の戦い」は、あっけなく終わってしまいます。 翌7日には、徳川慶喜と会津藩を中心とする幕臣諸藩に対し「朝敵追討令」が出されます。その中には、讃岐高松藩の名前もありました。まぁ、鳥羽・伏見の戦いでは幕府側に付いて戦ってますし、痩せても枯れても松平家。まして藩祖・松平頼重公は、水戸徳川家の祖・松平頼房の長男(あの黄門様のお兄さん)。将軍家とは親戚関係ですから、当然っちゃあ当然ですわね。 で。同じ京都に出兵していながら、薩摩・長州においしいところ≠持って行かれっぱなしの土佐藩、ここぞとばかりに高松藩へ攻め入ったのが11日(この時の司令官が乾退助、のちの板垣退助)。それに、元々勤皇派が主流を占めていた丸亀藩と多度津藩が加担。一方の高松藩、一時は土佐連合軍と一戦交える覚悟に藩論が固まりましたが、出兵前夜、主戦派の中心だった家老・成田頼母が暗殺された事で一気に恭順に傾き、20日に降伏。家老2名の処分(佐幕の方針を取った責任という事で切腹)と藩主・松平頼總(よりとし)の謹慎とともに、高松城を明け渡します。いわゆる無血開城ですな。もっとも、頼母と責任を取らされた家老2人の血は流れましたが。 その後、軍資金の献上や奥羽戦争での奮戦など、朝敵≠フ汚名を晴らすために尽力。その甲斐あって、廃藩置県の折にも高松県≠ニして認められました――その割には後年、徳島やら愛媛やらに組み入れられて、現在の香川県≠ニして確立したのは明治21(1888)年の事ですけど。 なんてミニ知識も踏まえまして。 讃岐松平家の象徴たる玉藻城天守閣、いくら民間に払い下げられ、何度も修繕申請が出されたとしても、おいそれと許可する訳がありません。よって、朽ちるに任せ、いい加減誰もの関心が薄れた頃に「倒壊の危険性があるから」と取り壊されました。まるでそれを待ち構えていたかのように。 一方、同じ讃岐にある丸亀城の天守閣は、過去何度も修復され、今も現存しているのは、朝廷側として戦ったから――なんて事が邪推される訳ですよ。 まぁ、数々の謎がどんどん解明され、ぼやぁ〜っと見えていた玉藻城天守閣復元という絵図面が、また少し鮮明に見えてきたかしら。 世界遺産にはなりませんが(笑)、高松市の、そして香川県の文化遺産には、間違いなくなる事でしょう。 いつの日か、高松駅前に玉藻城天守閣が聳え立つ日を夢見て―― |
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さてさて、続きです。
いやー、最近は1回にまとめられませんな。 忙しくて頻繁に記事をかけないというのも ...続きを見る |
funny 一時 serious のち ... 2007/10/28 01:10 |
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